第73回「(じょう) −“1995年1月17日”に思いを馳せて−


汝等比丘(なんだちびく)()し念を(おさ)むる者は心則ち(じょう)に在り。
心、定に在るが故に()世間生滅(せけんしょうめつ)法相(ほっそう)を知る。
是の故に汝等常(なんだちつね)(まさ)に精進して、諸の定を修習(しゅじゅう)すべし。

「念を摂むる」という言葉が再び登場します。(詳しくは、仏遺教経第71回「“心を摂める”ことの習慣化」をご参照ください)「不忘念」とは、日常生活の中で「正法を意識しながら生きていくこと」でした。そうした日常の過ごし方によって、我々の身心が穏やかになり、調っていく(念を摂むる)ことができると共に、私たちの身心に安心がもたらされるとお釈迦様はおっしゃっています。それが、今回から示されていく「定」です。「不忘念」によって、「心則ち定に在り」とあるように、八大人覚に示される8つのみ教えが別個に存在しているのではなく、それぞれ関連し合い、つながりあって、お釈迦様がお示しになっている“八大人覚(私たちの目指すべき8つの生き方)”になっていることを、今一度、再確認しておきたいところです。

さて、「定」ですが、心が安定し、あらゆる妄想分別を引き起こすことのない、不動の状態を意味しています。私たちの心は、動じやすく、ちょっとしたことで不安定になる弱い存在です。そのことを知り、不安定な心を安定させ、できるだけ動じないようにしていこうというのが、「定」です。

本日令和3年1月17日は「阪神・淡路大震災」が発生して26年目を迎えます。
―1995年1月17日、早朝5時46分―当時、高校入試に向けて早朝から猛勉強に励んでいた15歳の私は揺れを感じたものの、まさか、少し離れた兵庫県では震度7を観測し、多くの家屋や道路が全壊・倒壊、火災が発生し、ライフラインが分断され、多くの尊いいのちが一瞬にして失われるているなど、思ってもいませんでした。今回の一句の中に「世間生滅の法相」とありますが、私たちの過ごす人間世界には、ある地点では、地震などの自然災害に直面している方がいれば、別のどこかでは何事もなく過ごす方がいるということがあります。それが「法相」、「この世の姿」です。そうした中で、特に、震災のような場面に直面すれば、誰しも不安が募ります。そんなとき、冷静でいたくても、中々、冷静でいられません。

自然災害に限らず、「新型コロナウイルス」等の感染症など、私たちのまわりには、人々に大きな不安を与える要素が多々あります。そうした存在に出逢ったとき、不安定になって当然の自分たちの心を、できるだけ冷静に調え、動ずることがないようにしていくことが、お釈迦様のおっしゃる「定」なのです。お釈迦様は「定」を提示しながら、「当に精進して、諸の定を修習すべし」とおっしゃっています。「精進」は、「混じりけのない純粋な状態(精)で、真っ直ぐに進んでいくこと」でした。「定」が体得できるように、精進を重ねていくことが、私たちに求められる生き方であることを、押さえておきたいものです。

−「阪神・淡路大震災」26年目の今日、お釈迦様のみ教えに触れ、我が不安定な心を、できるだけ調えて、安定させていけるように−それが、26年前の今日、まだまだ生きたいと願いながら、その願いを叶えぬことができなかった多くの被災者への供養につながっていくと信じています。