第14回 「“本当の幸せ”“本当の生き様”とは・・・?」

―『三宝帰依』、その意義・その理由―

本来ならば、「教授戒文」では、「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」が示された後、「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」について触れられていきますが(「十重禁戒」の詳細はこちら)、その前に、もう少し、「仏法僧の三宝に帰依する」ということについて、触れておきたいと思います。

道元禅師様の有名なお示しに「仏法値(ぶっぽうあ)うこと(まれ)なり」とあります。我々は父と母の存在によって母胎に宿り、そこから約10カ月の間、人間としての姿形が育まれ、この世に誕生します。生まれてきたいのちは、時間の流れの中で成長し、やがては老い、病を抱え、死を迎えます。

果たして、この間、一体、どれだけの人がお釈迦様と出会い、仏法と共に日常生活を送ってきたと言えるでしょうか。実際には『仏法僧の三宝を信じ、わが身を委ねるという「三宝帰依」というレベルまでの日常生活が送れた』と言える人はほんのわずかのように思います。まさに三宝とご縁が結べる可能性など、限りなく小さいのです。

だからこそ、道元禅師様は「早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦(しゅく)解脱(げだつ)するのみに非ず、菩提(ぼだい)成就(じょうじゅう)すべし。」(正法眼蔵・「帰依仏法僧宝(きえぶっぽうそうぼう)」)と、我々に願われるのです。誰もが自分たちの日々の生活の中で苦悩から逃れたいと願っていることかと思いますが、「三宝帰依」さえできれば、その願いは叶うと共に、私たちは「菩提を成就」、「人間性が仏のお悟りに近づくことができる」と道元禅師様はおっしゃっているのです。

道元禅師様が「三宝帰依」をお勧めになる理由は「()の三種は畢竟帰処(ひっきょうきしょ)にして、()く衆生をして生死(しょうじ)出離(しゅつり)し、大菩提を証せしむるを以ての故に帰す」(正法眼蔵・「帰依仏法僧宝」)とあるように、仏法僧の三宝が「帰処」、すなわち、私たちが自宅に帰り、自分の部屋で疲れた心身をのんびりとリラックスさせてくれるような存在だからに他ならないからだというのです。

私自身、曹洞宗門の布教者の末席に身を置くものとして、少しは仏法と共に日常を生きてみたいと願い、坐禅に身を投じてみたり、祖師方がお示しになったに経典祖録に目を通してみたりして、意識的に仏道と触れ合う時間を設けるようにはしています(まだまだ道元禅師様がお示しになっている「三宝帰依」であるとは言い難いのですが)。そうした中で、道元禅師様の「早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず、菩提を成就すべし。」というみ教えが、すとんと自分の中に落ち、合点がいくのです。20代の学生時代、ご本山での安居(あんご)(修行)中、そして、僧侶として布教の道を歩む今。布教の道を志ようになってからは、苦悩に出会うことがあっても、早く解決方法に気づき、穏やかな方法で問題に対処できる場面が増えていったように思います。また、今年の目標に「調」という文字を掲げましたが、こうした仏法を人生の目標に掲げる習慣が、締まりのある一年を過ごすことにもつながっているようにも思います。こうして、多少なりとも仏道に出会えた今の方が、毎日が充実し、心穏やかに過ごせているような気がします。そして、この先、さらに仏道を歩み続けていけば、もっと様々な経験を積み、そこから出てくる言葉も変わっていくのではないかと思うと、未来への期待というものも沸き起こってくるのです。

仮に今、生きることに苦悩を感じたり、どこか不平不満をぬぐい切れず、嫉妬や怒りなどの三毒煩悩を抱えながら毎日を過ごしているとすれば、三宝とご縁を結び、三宝に帰依していくことをお勧めします。すぐに三宝帰依の効果が出るわけではありません。何年も時間を要するかもしれません。しかし、必ずや人生が変化します。苦悩に満ちた生活を送る人々は余道(よどう)(仏道以外の道)に惹かれ、救いを求めがちです。しかし、道元禅師様は「そうした余道に帰依しても、苦悩からは逃れられない」と断じます。

「此れ(余道)への帰依は、勝に非ず、此の帰依は尊に非ず」(正法眼蔵・「帰依仏法僧宝」)

このみ教えを胸に、「三宝帰依」の日常を目指しながら、毎日を過ごしていきたいものです。そして、自身の三宝帰依を確認した上で、次回より十重禁戒を味わってまいりたいと思います。