第67回「経行(きんひん)の法 その1 −睡魔を除去する方策−

坐中若(ざちゅうも)昏睡来(こんすいき)たらば常に(まさ)に身を(うご)かし、
(あるい)は目を張り、又は心を頂上と髪際(ほっさい)眉間(みけん)とに安ずべし。
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ほ未だ醒めざる時は、手を引いて應に目を(ぬぐ)ひ、或は身を()すべし。
猶ほ未だ醒めざる時は、座より()つて経行(きんひん)せよ、
正に要す順行(じゅんぎょう)して若し一百許歩(きょほ)に及ばば、昏睡必らず醒めん。


今回は坐禅中に眠気を催してしまった場合の対応策について触れられています。

そもそも、瑩山禅師様は「坐禅用心記」の中で、「三不足(さんふそく)」ということについてお示しになっています(詳しくはこちらをご覧ください)。これは、“食事”・“衣服”・“睡眠”の三者が不足することないように心がけ、自らの身心を調えて、坐禅に身を投じ、決して、怠けることなく、仏道修行に勤しむことの大切さを説いたものです。

ところが、普段から“睡眠”に気を配っているのに、日頃の疲れなのか、はたまた、身心がリラックスしすぎてしまうのか、坐禅中に睡魔に襲われ、ついつい眠ってしまったという経験は、坐禅修行者にはありがちなことです。かく言う私も、これまで幾度となく「気がついたら、坐禅中に眠っていた」という経験があります。こうした経験を通じて私が感じるのは、坐禅しているときほど、我が身心は正直に働くということです。疲れた身体で坐れば睡魔に襲われ、体調不良で坐れば集中力が途切れて坐禅が続かない、そんな坐禅だからこそ、今の自分の状態と素直に向き合うことができるように思います。

そうした「坐中若し昏睡来たらば」という状況になったとき、「身を搖かし、目を張り、心を頂上と髪際と眉間に安ずべし」と瑩山禅師様はおっしゃいます。「身体を動かして、目をしっかりと見開き、心が頭上や髪の生際、眉間に行くようにすればよい」ということですが、身体を動かすといっても、周囲で坐禅を行じている人々に不快感を覚えさせるような激しい動きを慎むことは言うまでもありません。あくまで小さくて、静かであるという程度の動きで捉えればよろしいかと思います。そして、自分の神経を頭上に「全集中」と言わんばかりに持っていくという、普段、あまり意識していない方法で以て、眠気を覚ましていくようにと瑩山禅師様はおっしゃっているのです。

そこまでしても眠気が覚めない場合は、「手を引いて目を拭ひ、或は身を摩すべし」とあります。これが、静かに「身を搖かす」ということと関連しているように思います。すなわち、小さく静かにまばたきするなどして、目を動かしてみたり、あるいは、肩を静かに上下させるようにして、我が身に静かに波動を起こさせるようにすることが「目を拭ひ、身を摩す」ということなのです。

それでも尚、眠気が覚めない場合、「座より起つて経行せよ」と瑩山禅師様はおっしゃいます。「経行」というのは、次の段で詳細に説明されていきますが、“歩く坐禅”とも言われ、坐禅中に坐屈や眠気防止のために、一定の時間、堂内をゆっくりと歩くことです。坐禅中に堂内の鐘が二度鳴ると(経行鐘(きんひんしょう))、修行僧たちは、一旦、坐禅を中断して、自分の座(席)を立ち、一定の時間、堂内を経行します。そして、堂内の鐘が一回鳴ったら(抽解鐘(ちゅうかいしょう))、経行を終えて、再び自分の座にて坐禅修行に入ります。

こうして眠気を覚まして、坐禅が続けられていくというのが、「順行して若し一百許歩に及ばば」の意味するところです。睡魔はまっすぐに進もうとする者を退歩させていく存在です。大本山總持寺独住第7世・秋野孝道禅師は「坐禅用心記講話」の中で、そうした睡魔に襲われることを戒めるというより、睡魔を除去する方法を瑩山禅師様はお示しになってくださっているとおっしゃっています。そして、秋野禅師は、この瑩山禅師様のご見解を「まことに親切な御提撕(ごていせい)(後進への教え導き)」と評していらっしゃいます。この禅師のお言葉を心に刻み、沸き起こる睡魔をコントロールしながら、禅の道を歩んでいきたいものです。