第75回「智慧のある日常生活を」


汝等比丘(なんだちびく)()智慧(ちえ)あれば則ち貪著(とんじゃく)なし。
常に自ら省察(しょうさつ)して(しつ)あらしめざれ。


前段において、お釈迦様は「智慧の水の為の故に、善く禅定(ぜんじょう)を修して漏失(ろうしつ)せざらしむ。是れを名づけて定と為す」とお示しになっています。これは、「智慧(仏の悟りを得た者のモノの見方や考え方)」を水に喩えながら、水に乏しい地域に生きる人々が水を大切にするように、どんなことがあっても、智慧が意識され、動じることなく、冷静さを保つことが大切であり、それが「定」であるということでした。

そんな「智慧」について、今回よりお釈迦様の遺誡が始まります。瑩山禅師様が「坐禅用心記」の中で、「三学(戒・定・慧)」について触れられていらっしゃいますが(詳しくはこちらをご覧ください)、智慧はその中の一つである「慧」のことです。これは、自分の中の三毒煩悩を調整することによって、体得できるようになる真理のことです。瑩山禅師様は「坐禅は戒定慧(かいじょうえ)(あづ)かるに非ず、(しか)も此の三学を兼ねたり」(坐禅用心記)とお示しになっているように、戒定慧の三者は個別に存在するのではなく、「干」が指し示すように、お互いに関連し合い、関わり合っています。ですから、坐禅をすることは、「戒の実践」であり、「定の実践」であり、「慧の実践」であるというのです。

そうした慧(智慧)が定(禅定)とも関連しあっていることは、瑩山禅師様のみならず、お釈迦様の最期のみ教えからも読み取れるわけですが、「智慧あれば則ち貪著なし」とあるように、智慧が体得できていれば、地位や名誉、財産といった、我が身を苦しめる存在に執着することがなくなるというのです。

私の知り合いのA氏は、職場での実力が認められ、若くして肩書を得、出世しました。しかし、A氏を抜擢した上司が人事異動となり、その後任として着任した新しい上司と、方針が対立するなどして、結局、A氏は肩書を失うことになりました。人目を気にするA氏は、当初は降格人事に納得がいきませんでしたが、数ヵ月後、降格によって顧客と関わる機会が増えるなど、本来、自分がやりたいと思っていた仕事が今まで以上にできることに気づき、降格を喜ぶようになったのです。A氏のような経験をした人は数知れずいらっしゃるでしょうが、ほとんどの方が、口をそろえて「それでよかった」と言います。これが地位や名誉に執着していた者が、そこから解放され、自由を得た歓喜の声ということなのでしょう。

「智慧」があるというのは、自分にとって逆境と思えるような現実に対しても、前向きに、プラスに捉えることができることを意味しています。逆に、「智慧」のない者は、逆境を逆境のままに受け止めるので、万事がマイナス思考で、否定的に見えてしまいます。しかし、そこからは何も見えてきませんし、何も生み出されてきません。歓喜よりも苦悩が多い人間世界において、「智慧」を体得し、水を惜しめる家の如く、大切に維持して漏失させないようにしていきたいものです。そのためにも、定期的に智慧のある日常を送れているかどうかを確認する必要が出てきます。それが「自ら省察して失あらしめざれ」の意味するところです。「省察」は「よくよく考えて、明らかにすること」です。多少時間を要しても、物事を前向きに捉えることを習慣づけ、智慧のある日常生活を目指していきたいものです。