第17回「不貪淫戒(ふとんいんかい) −“三輪清浄(さんりんしょうじょう)”なりて、諸仏の道と“(ひとつ)”になる―

第三不貪淫(だいさんふとんいん)三輪清浄(さんりんしょうじょう)なれば、(こいねが)い望む所無し。
諸仏の道は(ひとつ)なればなり。

昭和60年のテレビコマーシャルに「禁煙パイポ」の宣伝がありました。“私はこれで会社を辞めました”と中年男性が悲壮感満載で小指を立てながらポツリと語る姿は一世を風靡し、今も多くの人の記憶にとどまっているのではないかと思います。

この男性が小指を立てて表現しているのは、言うまでもなく“異性”のことで、異性との関わり方に対して、自分の欲望をコントロールすることができなくなれば、家庭や仕事など、自分が大切にしてきたものまでも失わざるを得なくなることが、このCMを通じて世間の人々に発信されているように思います。

そうした“異性との関わり方”を起点として、周囲のいのちとのあるべき関わり方を体得し、我が心の中に発生した三毒煩悩を調整していくことを目指すのが、「第三不貪淫」です。この「不貪淫」は、修証義第3章「受戒入位」では、「不邪淫(ふじゃいん)」となっています(詳しくはこちらをご覧ください)。この理由は、修証義の成り立ちと関連します。そもそも、修証義は一般在家を対象とした曹洞宗の宗意安心(しゅういあんじん)を目標として編纂された経典であり、あくまで一般在家には、「異性との関わり方に留意しながら、自らの身心を調えていく」という点が重視されたため、「不邪淫戒」になっているということです。それに対して、「教授戒文」は道元禅師様が出家して、仏道に入る者や仏道修行者を対象としてお示しになった仏戒に関するみ教えゆえに、「不貪淫」となっているのです。

そうした「不貪淫」ということについて、「三輪清浄なれば、希い望む所無し」と道元禅師様はおっしゃいます。「三輪」とは、「(しん)()()の三業」のことで、「私たちの身体・言葉・心」を意味しています。その三者が「仏の如く調い、清浄になっているならば、あれこれ欲したり、望んだりすること自体がない」と道元禅師様はおっしゃっているのです。すなわち、自分自身が仏のみ教えに従い、清浄な生き方を保っているならば、相手を必要以上に求めるとか、高価な品を追い求めてみたり、自分の思いを叶えようと奔走したりといった言動自体が起らなくなるというのです。そこでは、対象に対して、自分の好みで好悪等を分別し、好きな方を選ぶなどという視点は起こりません。対象の全てが仏様であり、仏様のお徳を有した仏体なのです。だから、万事が大切な存在であり、選びようがないのです。選びようがないから、貪りが発生することもなければ、必要以上に執着して、あれこれ追い求めることもなくなるというのです。

そうなってくると、もはや自分の日常が悟りを得た諸仏の道と一体化し、同じものになっていくのです。それが「諸仏の道は同なればなり」の意味するところです。「第三不貪淫」を通じて、押さえておきたいことは、「三輪清浄なりて、諸仏の道と同になる」というとです。「三輪清浄」が自分の生き様の根底になくては、「不貪淫」が実現できません。自分の周囲に存在するあらゆるいのちを仏の如く敬いながら、我が三輪を清浄に調えていくとき、人は諸仏と道を同じくできるようになっていくのです。