第77回「実智慧の者は」

実智慧(じっちえ)の者は、則ち是れ老病死海(ろうびょうしかい)(わた)堅牢(けんろう)の船なり、
亦た無明黒暗(むみょうこくあん)大明燈(だいみょうとう)なり、一切病者(いっさいびょうしゃ)の良薬なり、
煩悩の()()るの利斧(りふ)なり。

普段より自らの日常生活を振り返っては、少しでも智慧(仏のお悟り)を体得できているか否かを省察(しょうさつ)し、精進を怠ることのない者を、お釈迦様は「実智慧の者」とおっしゃっています。今回、そうした「実智慧の者」について、お釈迦様4通りの喩えを用いながら、表現なさっています。それぞれ下記に提示し、解説させていただきます。

(1)老病死海を度る堅牢の船 ―どんな苦難も乗り越え、目的地に向かう船のごとき存在―
お天気のいい日にドライブに行ったり、あるいは、海水浴を楽しんだり、そういった日常的な関わりを想定してみたとき、“海”というのは、自然災害や水難事故などに注意さえしていれば、さほど危険もないように思います。しかし、漁業のような天候に左右される命がけの経済活動であったり、去る令和3年2月1日施行の「海警法(中国周辺海域における中国海警局の権限等を定めた法律)」にまつわる領海や国家間の平和の問題、また、去る2月8日に発生した海上自衛隊「そうりゅう」と貨物船の衝突事故であったりと、視野を拡げてみれば、海というのは、きれいな面や穏やかな面だけでは捉えられないように思います。様々な側面を含んでいるのです。そういう意味では、「生老病死」と隣り合わせの人間の人生も同じで、お釈迦様はそれを踏まえ、「老病死海」という表現をなさっているような気がします。すなわち、老いや病気、死といった我が身に迫る危険等も含む海であると。そんな海において、実智慧の者は「堅牢の船」であるとお釈迦様はお示しになっています。どんな荒波や事故にも対応できる堅固な船のごときものであるというのです。

(2)無明黒暗の大明燈 ―無知の暗闇を照らすライトのごとき存在―
「無明」とは、「道理に暗く、真理に無知であること」を意味しています。瑩山禅師様は「坐禅用心記」の中で、「十二因縁」の思想について触れていらっしゃいます(詳しくは
こちらをご覧ください)。無明という、この世の道理に明るくないことが、三毒煩悩を発生させ、自他を苦しめていくのです。そのことを踏まえ、暗闇を照らす大きな燈明(ライト)のごとき智慧を体得し、道理に明るく、真理を知り尽くそうとする生き方を目指していく必要があります。それが「無明黒暗の大明燈」に込められたお釈迦様の願いなのです。

(3)一切病者の良薬 ―万人にとって、“食事”のような存在―
道元禅師様は「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」の中で、食事をいただく際にお唱えする「五観(ごかん)の偈」についてお示しになっています。その中で、「食事は私たちの身心を健全に調えてくれるよき薬であるがゆえにいただく」という内容の偈文があります。万人の健全な日常を保証し、明日へのいのちをつなぐ食事のごとく、全ての人を救い上げる力を持った智慧のみ教えだからこそ、是非とも体得していたいと願うのです。


(4)煩悩の樹を伐るの利斧 ―どんな困難にも使える優れた道具のような存在―
よく砥ぎ澄まされた斧は、どんな大木も切り倒してしまいます。いい仕事には経験豊富であることもさることながら、使用する道具が優れていることも必須です。自分の中に発生した三毒煩悩が、どんな状態になったとしても、研ぎ澄まされた斧のごとき優れた道具によって、解消できる―そんな力を有するのが「智慧」なのです。

お釈迦様の「智慧」に関する4つの喩えを読み味わってみましたが、私たちがお釈迦様のみ教えに従い、「智慧」のある日常を過ごすことが、私たちの苦悩を取り除くと共に、身心を調え、仏のお悟りに近づけていくことは確かなことなのです。そうした智慧が体得できるように日々を過ごすことは、もはや申し上げるまでもないことです。