第19回「不酤酒戒(ふこしゅかい) ―“慢なる酒”にご用心!―」

第五不酤酒(ふこしゅ)()ち来ることも()く、侵さしむることも()き、
正に()大明(だいみょう)なり。

読んで字の如く、“酒”をテーマとした仏のみ教えです。酒を飲めば、人は酔います。そして、酒を飲むなら、楽しく飲みたいと誰もが願っていることでしょう。しかし、酒の飲み方を誤れば、ちょっとした口喧嘩だったはずが殺人事件に発展したり、短い距離の運転と思って握ったハンドルによって、重大な事故が発生したりと、戒律(仏の生き方)に大きく背く結果が生ずることが起こり得ます。

そうした酒というものに対して、その性質を押さえた上で、「日常生活において、どうやって酒と関わっていくことが、仏のみ教えに叶った行いになるのか」ということを学び、自らの身体に習慣として刷り込んでいくことが「第五不酤酒」のねらいです。

まず、「酤」という文字に着目してみたいと思います。一般には見慣れない文字ですが、これは「買う」とか、「売る」という意味を有した文字です。ということは、「不酤酒」というのは、酒の売り買いを戒めるみ教えだという解釈になります。

しかし、そうなると、「酒を販売する全国数多の酒屋さんなり、居酒屋やバーなど、酒類を提供する飲食業は仏のみ教えに反した悪しき行いをやっているのか」という疑問が生ずるでしょう。しかし、それは間違いです。なぜなら、仏教は特定の方に批判の矛先を当て、排除するようなことはしないからです。「不酤酒」において説こうとしているのは、「自分と酒との関わり方」であるということを、しっかりと押さえておきたいところです。すなわち、眼前に酒があり、それを体内に取り入れたとき、どんな行動を提示しながら周囲と関わっていけばいいのかという点を説こうとしているいうことです。

仏教では自分の中に発生した三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を調整することを説きます。つまり、三毒煩悩を表出させて、周囲に不快感を与えないような言動の提示を説くのです。この点に着目したとき、酒には、飲めば三毒煩悩を発生させ、表出させるスピードを速めてしまう特性があるが故に、できることならば、酒の売り買いや提供は避けるべきであるものの、もし、どうしても飲酒しなくてはならない場面があるならば、仏の飲み方とは何かを考え、それを心がけていくことが重要になっていくことに気づかされます。

昭和の傑僧のお一人で、臨済宗妙心寺派21代管長・山本玄峰(やまもとげんぽう)老師(1866-1961)は、大の酒好きの禅僧としても知られた方ですが、「酒が悪いのではなく、酒の飲み方が未熟なのだ」とおっしゃったとのことです。たとえ、殺人や傷害までには至らなかったにしても、酒に酔ったのをいいことに暴言を吐くなど周囲に不快感を与えるような言動も慎むべきでしょう。そうした事の大小にかかわらず、今一度、山本老師のお言葉を胸に、自身の飲酒を振り返り、穏やかな飲み方を心がけていきたいものです。

また、飲酒する者に限らず、万人が注意しなければならないことがあります。それは「慢」ということです。「慢」は酒のように人を酔わせてしまいます。お釈迦様は「憍慢(きょうまん)」ということに触れ、戒めていらっしゃいますが(詳しくは
こちらをご覧ください)、地位や仕事への慣れなど、酒に酔うが如く、自分を酔わせるものが私たちのまわりに存在しています。そうした“慢なる酒”に十分なくらいに用心を払い、自分を調えていくことが「不酤酒」における最大の留意点なのです。これが「買う」という側面からの「不酤酒」です。

逆に「売る」という側面からの「不酤酒」というのは、周囲を酔わせないことです。自分が発した言動によって、周囲が慢心するようなことがないように留意するという視点も併せ持つことが大切です。そうした「酔わない」・「酔わせない」を説いているのが、「将ち来ることも未く、侵さしむることも莫し」なのです。どこからも自分を酔わせるものが来ることもなければ、自分から相手を酔わせるようなものを発することもないということです。「酤」における「買う」を意味するのが「将ち来ること」であり、「売る」が「侵さしむること」という捉え方も興味深いです。そして、そういう状態によって、「大明」という、全てが雲一つない晴れ渡ったような状態が実現できるというのです。

自らを酔わせる“慢なる酒”を意識し、誰もが酔うことなく、自らの身心を調え、仏のお悟りを目指していきたいものです。