第73回「至祷至祷(しとうしとう) ―“石霜七去(せきそうしちこ)”に込められた瑩山禅師様の願い―

(じき)(すべか)らく休し、(けっ)し去り、冷湫湫地(れいしゅうしゅうち)にし去り、一念蔓年(いちねんばんねん)にし去り、
寒灰枯木
(かんかいこぼく)
にし去り、古廟香爐(こびょうこうろ)にし去り、一条白練(いちじょうびゃくれん)にして去るべし。
至祷至祷
(しとうしとう)

曹洞宗の太祖(たいそ)瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師(1268−1325)による坐禅の目的や用心について触れられた「坐禅用心記」も、今回の一句を以て幕を閉じます。そんな最後の一句を、瑩山禅師様は「至祷至祷」、「心から祈る」という意味を持った言葉で結んでいらっしゃいます。ここには、お釈迦様からインド・中国、そして日本の多くの祖師方へと脈々と伝わる「正伝の坐禅」を多くの人が行じ続け(精進)、その説かんとするものを体得し、仏のお悟りに近づくことを切に願う瑩山禅師様の思いが感じられます。そして、これこそが、この人間世界にいのちをいただいた我々一人一人の使命(いのちの使い方)なのです。そうした瑩山禅師様の願いを存分に汲み取り、坐禅を通じて、仏のみ教えと共に生きていくことという私たちの使命を、今一度、確認しておきたいところです。

そんな瑩山禅師様が「坐禅用心記」の結びに掲げられたのは、「石霜七去(せきそうしちこ)」と申しまして、中国の禅僧である石霜慶諸(せきそうけいしょ)禅師(807−888)のお言葉から高弟が選んだ七つの仏道を行ずる者の修行のありように関するものです。石霜慶諸禅師については、以前にも「坐禅用心記」の中で取り上げられています(詳しくはこちらをご覧ください)。「石霜枯木(せきそうこぼく)」とあるように、眠くなっても臥すことなく、黙々と坐禅修行に身を投じた様が枯木のごとき不動のものであったことから、「枯木衆(こぼくしゅう)」とも称された僧として、現代にもその名を残していらっしゃいます。

そんな「枯木衆」こと、石霜慶諸禅師による「石霜七去」を下記一覧表にまとめて、ご紹介させていただきます。

休去(きゅうしされ) 妄想・雑念の働きを止める。(歇・・・休む、尽きるの意あり)
歇去(けっしされ)
冷湫湫地(れいしゅうしゅうち)にし去れ 三毒煩悩の熱気が冷めた清涼なる境地を会得する。
一念萬年(いちねんばんねん)にし去れ 一念(短)・萬年(長)といった、長短などの相対を離れた絶対を体得する。
寒灰枯木(かんかいこぼく)にし去れ 寒灰(冷え切った灰)と枯木(枯れた木)。煩悩妄想の熱気なき状態。
古廟香爐(こびょうこうろ)にし去れ 古廟(古い霊廟・寺院)に香火を手向けるものなき状態(煩悩の熱気なき状態)。
一条白練(いちようびゃくれん)にして去れ 一条(一本)・白練(染色していない真っ白の絹)のごとき混じり物のない純粋な状態。

こうやって味わっていくと、「石霜七去」は、「枯木衆」と称され、坐禅一筋に生き、坐禅を“やって、やって、やり続けてきた道の人”たる石霜慶諸禅師が発せられた坐禅の境地であり、それを七つに分けてお示しくださっていると捉えることができるように思います。坐禅の海に我が身を投じ、只管に坐禅道を邁進する中で、どうか、この七つを心に留め、瑩山禅師様の願いに応えていきたいものです。そうやっていく中で、我が人間性が磨かれ、仏のお悟りに近づいていくのです。