第22回「
法(お釈迦様のみ教え)や財物を惜しむことなく周囲の何某かに差し上げることを説いた戒で、修証義第四章・「
ふと、自分たちの普段の生活を振り返ってみたとき、心の底から相手に喜んでもらえるようなことをしようと思うこともあれば、その反対に、たった一枚の紙でさえも差し上げるのがもったいないと思って、出し惜しみをしてしまうような場面もあります。なぜ、そうした行為の違いが生ずるのでしょうか?そもそも、なぜ、人間には「惜しむ」という行為が起こるのでしょうか?それは、自分の好みや考え方に引きずられ、周囲に対する態度を変えてしまうからです。つまり、自分が好きなものに対しては好意的になれるのに、苦手なものは意識的に遠ざけ、その価値さえも認めようとしないといった分別して捉えることが、「惜しむ」という行為につながっていくのです。
戒のみ教えに触れていく中で、「周囲と“
ところが、自分が周囲と“同”になることができなければ、たった一句の法語であれ、たった一偈の仏法であれ、自分だけが有利になるような使い方をばかりを考えて、周囲の幸せを願って、施す(伝える・教える)といった態度にはなれないでしょう。一切の存在が溶け合って境界線のない状態になったとき、「施し合い」という行為が芽生え、惜しむという行為そのものがなくなるのです。すなわち、惜しみようがなくなるのです。
そこでは、万事が諸仏諸祖です。修証義のコーナーで「布施」のみ教えに触れた際に、施す側・施される側・施物の三者が仏法そのものであるというお話をさせていただきました(詳しくはこちらをご覧ください)。これは「
そうした「三輪空寂」を説いているのが、「一句一偈は万象百草なり。一法一証は諸仏諸祖なり」です。「万象百草」というのは、もろもろの草が転じて、「この世の一切の存在」を意味する言葉です。また、「一法一証」は「仏のみ教え・お悟り」のことです。“万事が仏のみ教え・お悟り”という状態になって、物事の施し合いがなされるために「
こうした「不慳法財戒」のみ教えに触れながら、我が日常生活を振り返ってみたとき、まだまだ周囲と“同”になりきれてないことに気づかされ、反省させられるばかりです。今一度、“同”を強く意識しながら、自らの言動に反映させていけるように心がけていきたいものです。