「坐禅」と「戒律」
-曹洞宗管長告諭に学ぶもの-

「管長」とは、宗派の代表役員のことで、曹洞宗では両大本山(永平寺様・總持寺様)の最高責任者である不老閣猊下(ふろうかくげいか)及び紫雲臺猊下(しうんたいげいか)が2年任期で交代でお勤めになることになっています。現在(令和3年4月1日時点)の曹洞宗管長猊下は、昨秋に大本山永平寺の不老閣猊下に就任なさった南澤道人老師です。その南澤老師がお示しになっている「曹洞宗管長告諭」をご紹介させていただきます。

管長告諭にもございましたが、そもそも仏教は、今から約2600年前、お釈迦様が「人生における苦悩の中で、菩提樹の(もと)、坐禅を重ねられ、お悟りを開かれた」ことが始まりです。以降、そのみ教えが、多くの祖師方に受け継がれていったことによって、今日、私たちはご縁をいただくことができました。

お釈迦様のみ教えが師から弟子へと受け継がれていくことを「相承(そうじょう)」と申します。「相承」によって、今日、もたらされたものが「坐禅」であり、「戒律」であったりします。「戒律」は、「仏教教団の秩序や和合を保つ上で欠かせない共通のルール」です。戒というと、“戒め”とあるように、“他者から強制的に押し付けられ、自らの意思に反してでも厳守すべきもの”というイメージが付きまといます。しかし、お釈迦様のお示しになっている戒は、そういうものではありません。あくまで、“自らの意思で自発的に護るもの”です。すなわち、自らの意思で仏のみ教えに従った善なる言葉や行いを発し、自発的に仏のみ教えから外れた悪しき行いを慎み、周囲のあらゆる存在に心を配っていくことなのです。

こうした「戒律」について、永平寺の開祖・道元禅師様が、その内容等を詳細にお示しくださっているのが「教授戒文(きょうじゅかいもん)」です。そこでは、私たち人間が、常日頃から心静かに自分自身と向き合う習慣を持つことを心がける大切さが示されていますが、その具体的な方法として提示されるのが、「坐禅」です。足を組み、背筋を伸ばして、どっかりと地面に腰を下ろせば、自ずと姿勢が調ってきます。そして、心が穏やかになっていきます。それまでは、イライラしていていたり、不安を感じるなどしたりして、不安定だった心が、安定していくのです。そして、それに伴って乱れていた呼吸も調ってきます。姿勢が調えば、心が調い、呼吸が調うというのが、坐禅の功徳です。そんな坐禅を繰り返して重ねていく中で、物事の捉え方、考え方が調い、仏のものの見方が育まれていきます。それが「正見(しょうけん)」ということです。

そんな坐禅の繰り返しによって、次第に自分の日常と心静かに向き合い、何が仏の道から逸れた悪しき行いであったかに気づくと共に、今度は、それを日常生活の中で二度と繰り返さないことを誓い、自らの行いとしていくようになります。それが「懺悔(さんげ)」という修行です。
【「懺悔」については、第2回でご紹介させていただきます】