「懺悔」は、世間一般には“ザンゲ”と呼んで、“自らの過ちを素直に告白する”という意味があります。しかし、仏教では“サンゲ”と呼んで、罪科の告白はもちろんのこと、“自らが犯した過ちを二度と繰り返さないことを誓い、それを自らの行いとする”という意味が付け加わります。そして、そうすることによって、私たちの人間性が磨かれ、仏に近づいていくのです。
そうした懺悔の次は“仏法僧の三宝に帰依する”ことです。仏・法(仏のみ教え)・僧(仏のお悟りを今日まで相承してきた祖師方)に対して、我が身を委ね、全てをお任せしていくことです。先の「曹洞宗管長告諭」の中に、「南無(ナム)」という言葉が出てまいりました。これが「帰依」を意味する言葉です。
「南無釈迦牟尼仏」には、お釈迦様に対して、「南無高祖承陽大師道元禅師」・「南無太祖常済大師瑩山禅師」は、道元禅師様と瑩山禅師様に対する帰依の念が表れています。そして、こうした帰依を自らの意思で自発的になされるのが、「三帰戒」です。
次は「三聚浄戒」です。自らの意思で仏のみ教えに従いながら、言葉や行いを提示していくと共に、周囲のいのちに対して、心配りをしていくことです。ここでポイントとなるのは、周囲の存在と“同”になることです。管長告諭にもありましたが、コロナ禍がもたらす人間関係のさらなる希薄化が進む中、自分という存在が周囲の様々な存在とつながり、関わり合い、支え合って生かされているという真理を再確認しておきたいものです。周りを見渡せば、必ず誰かがいます。自分の足下に限りなく広がる大地には人間のみならず、様々なモノや動植物が存在しています。また、頭上に限りなく拡がる空には、空気が漂い、太陽や雲などがあります。そうした様々な存在との関わり合いの中で、自分という存在があるのです。そのことを意識しながら、常に周囲とつながっていくことを心がけておきたいものです。
そんな「三聚浄戒」を、私たちの日常生活の様々な場面に即しながら、十通りの表現をしたのが、「十重禁戒」です。ここでは、周囲の存在と“同”になることを心がけて、お互いに相手の存在を殺さずに生かし合うことや、嘘や批判、悪口のない真実の言葉を用いること、自分の心を調えた上で言動を発することなどが示されています。ポイントはやはり、周囲と“同”になることです。
そんな周囲と“同”になる行いというのが、管長猊下がお示しになっている「菩提薩埵四摂法」の一つである「同事」なのです。 【第3回へ】
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