お釈迦様のお悟りって・・・?

あるご老師がご自分のお寺で開催している坐禅会の参加者に「自分が坐禅をしている姿を絵に描いてごらんなさい」とおっしゃったところ、ある男性は図1のようなイラストを描きました。いかがでしょう。これぞ道元禅師様が「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」の中でお示しになっている坐禅の方法に忠実なイラストです。

ところが、ご老師は「この絵は違う」とおっしゃいました。何が違うのでしょうか・・・?

と申しますのは、図1には、自分の周囲で自分と同じように坐禅をしていたはずの人の姿や、自分が坐禅をしていたお寺の本堂の柱や窓、床等が一切描かれていません。それがご老師が違うとご指摘になる理由です。本来は図2のようなイラストになるのではないでしょうか。このご老師は、イラストを描くこと通じて、「坐禅とは自分とその周囲に存在する様々ないのちとのつながりを実感する仏行である」ということを坐禅を行ずる人々にお伝えしたかったのです。

今から約2600年前の12月8日の明け方、そうした坐禅修行を通じて、お悟りを得たと伝えられているのがお釈迦様です。お釈迦様は当時35歳、以来、インドの各地を遊行(ゆぎょう)(徒歩の旅)され、ご縁をいただいた方々にお悟りをお伝えになること45年。80年のご生涯を終えられました。

お釈迦様在世から滅後500年の正法時(しょうぼうじ)、滅後1000年の像法時(ぞうほうじ)を得て、仏教はインドから中国、日本へと伝わり、時は1300年、鎌倉時代の終わりです。加賀の地にある曹洞禅の古刹・大乘寺2世住職をおつとめでいらっしゃった瑩山(けいざん)禅師様は会下の修行僧たちにお釈迦様がお悟りを得たときに発せられた下記のお言葉を提示し、教えを教示していらっしゃいます。

我与大地有情(われとだいちうじょう)同時成道(どうじじょうどう)。(我と大地有情、同時成道。)」

これは、お釈迦様がお悟りを得たときに、周囲に存在する様々ないのちも同時にお悟りを得たことを意味するお言葉です。瑩山禅師様は中でも「我」と「与」に着目され、お弟子様たちに深く参究するようにとおっしゃっています。

この「与」こそが、「自分という存在は一人で生かされているのではない。周囲の様々ないのちとつながり、関わり合い、支え合って生かされている」ことを意味しているのです。すなわち、これがお釈迦様のお悟りになったことであり、仏の悟りとは「与」の体得なのです。

この世にいのちをいただいて、生かされている私たちは、時間の流れと関わっているがゆえに成長し、やがては老い、消滅していきます(諸行無常(しょぎょうむじょう))。自分と考え方も性格も同じ存在はないがゆえに、思い通りにならない現実を受け止めていかなくてはなりません(諸法無我(しょほうむが))。それゆえ、この世は苦しみの世界である(一切皆苦(いっさいかいく))。そうした真実を素直に受け止めながら、心穏やかに毎日を過ごす「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の体得が、我々の生きる目標なのです。
               【第3回に続く】




図1


図2