第1回「施食会(せじきえ) ―あらゆる精霊に“(じき)を施す”仏行―

曹洞宗門始め、ほとんどの宗派で営まれるご法要に、「施食会(せじきえ)」があります。「“食”を“施す”」とあるように、亡きご先祖様の魂をお呼びし、お供え物を捧げて(食を施す)、ご供養させていただくというのが、施食会です。

この「施食会」には、様々な名称があります。「施餓鬼会(せがきえ)」や「水陸会(すいりくえ)」など、地域や時代の流れの中で、呼び名は異なれども、為されることは同じです。仏教の伝説によれば、中国の(りょう)武帝(ぶてい)(502−549)の時代に、初めて「水陸会」が行われたとのことで、以降、日本に仏教が伝来した際にも、真言宗の開祖・弘法大師こと空海(774−835)によって、施食会関係の経典類が中国からもたらされたとのことです。以来、今日まで、「施食会」は、主にお盆(盂蘭盆会(うらぼんえ))やお彼岸の時期に営まれるという形で、その法灯(ほうとう)が絶やされることなく、続いています。

様々な名称が用いられているという点では、曹洞宗では近年、「施食会」という呼び名が一般化しており、「施餓鬼会」という言葉が用いられることが少なくなりました。そもそも「餓鬼」というのは、私たち人間が自らの行いによって赴くとされる六つの世界(六道(ろくどう))の一つで(詳しくはこちらをご覧ください)、常に飢渇に苦しむ世界であると言われています。そうした餓鬼に赴き、空腹に苦しむ者たちに対して、食を施すことで、飢えの苦しみから救うことを願うのが「施餓鬼会」なのです。

そうやって、「施餓鬼」という言葉の字義や内容に忠実に捉えてみると、一つの疑問が生じます。「施餓鬼会は、餓鬼界に趣きし者を供養する法会であるというが、お盆やお彼岸のご法要の目的(あらゆる精霊に供養の意を捧げること)と矛盾するのではないか」という疑問です。そもそも、曹洞宗の葬儀では、亡き人に仏弟子としてのお名前(戒名)をお授けし、仏の世界へとお導きします。たとえ生前の行いが悪しきものであったとしても、葬儀式の冒頭で、懺悔(さんげ)(生前の罪過を悔い改め、二度と繰り返さないことを誓う)がなされるため、亡き人々は全て仏に成った(成仏)と捉え、六道世界のいずれかに赴くとは考えません。それゆえに、仏に食を施して供養するという意味で、「施食会」という呼び名が妥当であるということになります。そんな「施食会」を、今・ここに生かされる我々は、仏への供養を通じて、普段の生活を見つめなおし、仏に近づく機会として捉えていけばいいということになります。

今回より読み味わわせていただく「甘露門(かんろもん)」という経典は、「施食会」において読誦されます。「甘露」とは、「涅槃」を指します。すなわち、「仏のみ教えへの入り口」というのが、「甘露門」です。その内容は、和文・漢文・真言と変化に富んだ構成になっています。また、お経を聞いてみると、リズミカルでテンポもよく、耳障りがいいと感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

それでは次回より、「奉請三宝(ぶしょうさんぼう)」という冒頭の個所から読み味わっていきたいと思います。