第95回「智者・釈尊の死生観−死の恐怖が歓喜(かんぎ)になる!?−

世は実に危脆(きぜい)なり、牢強(ろうごう)なる者なし。
我れ今滅を()ること悪病を除くが如し。
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れは()(まさ)に捨つべき罪悪のものなり、仮に名づけて身と為す、
老病生死の大海(だいかい)没在(もつざい)せり、何ぞ智者(ちしゃ)は之を除滅(じょめつ)することを得ること、
怨賊
(おんぞく)
を殺すが如くにして、而も歓喜(かんぎ)せざること有らんや。

「諸行無常」なるがゆえに、生成すれば、変化を繰り返し、やがては消滅していくというのが、この世の道理です。そうした娑婆世界に生かされているものならば、万事、諸行無常の道理にさらされることから逃れられません。だから、「諸行無常」を現実として受け止めながら生きていくことが求められるのであり、お釈迦様はそれをお示しになっているのです。

「諸行無常」ということを考えてみたとき、一つには、「何事にも期限がある」という側面があることに気づかされます。3月に決算期を迎える株式会社などの法人では、6月末までに事業活動や決算の承認、役員の専任といった重要な案件が決議がなされます。役員について、定款(ていかん)(法人の規則)には、その任期が記されていますが、これを期限と言い換えることができるでしょう。役員の任期(期限)は、解任事由が生じたり、再任されたりしない限り、任期満了によって終了し、後任に選任されたものが役を務めることになります。

任期を終え、次の者が役職を務めるようになると、周囲も今までのように、役職の者として見てくれるわけではないので、発言力にしろ、周囲への影響にしろ、役職を司っていた頃から見れば、随分、低下してしまうことでしょう。まさに「世は実に危脆なり、牢強なる者なし。」です。どんなに権力を振りかざし、大手を振って歩いていたとしても、「諸行無常」の道理を前に、誰一人として、強く立ち振る舞うことなどできないのです。

そんな娑婆世界において、「仮に名づけて身と為す」とあるように、我々人間は、身体というものを仮にいただいて、いのちを生かされている存在に過ぎません。そんな私たちが、無常の風にさらされながら、いのちの期限が迫ってきたとき、心静かに、流れに身を任せればいいとお釈迦様はおっしゃっているのです。それが「今滅を得ること悪病を除くが如し。此れは是れ応に捨つべき罪悪のものなり」に込められたお釈迦様の願いです。誰だって我が身に死が訪れるのは恐ろしいです。しかし、最期で生に執着して、ジタバタしても仕方ないのです。修証義第1章の中に「国王大臣親ジツ従僕妻子珍宝助くるなし」(詳しくはこちら)とあるように、死を迎える者を誰も助けられません。私たちはたった一人であの世に向かうことになるのです。そんな諸行無常の風にさらされている私たち人間の生涯を、お釈迦様は「生老病死の大海に没在せり」と言い表していらっしゃいます。

そのことを“智者”たる“悟りを得た仏道修行者”ならば、重々承知できているがゆえに、生への執着や、死に対する恐怖感というものを、あたかも怨賊を殺すがごとくに自らの中に押し殺し(苦悩を現実として受け止め)、歓喜(喜ぶさま)の心を表しさえするとお釈迦様はおっしゃいます。これは、死を目前に控えた智者・釈尊の「死に対するお言葉」と捉えても過言ではないような気がします。死の恐怖は、諸行無常を完全に体得した仏道修行者である「智者」の領域に達したとき、随分和らぎ、恐怖から歓喜へと変化していくとお釈迦様は証明してくださっているのです。

こうした捉え方ができるようになるためには、道一筋に精一杯、いただいたいのちを生きてこそ、得られるものではないかという気がします。自分にご縁をいただいた道を真剣に歩み、自らが歩んできた道に後悔することがないよう、智者・釈尊を見習っていきたいものです。