第4回 「宗乗自在(しゅうじょうじざい) −坐禅を行う者の心構え−」


宗乗自在(しゅうじょうじざい)何ぞ功夫(くふう)を費やさん


まずは冒頭の「宗乗自在(しゅうじょうじざい)」という言葉を押さえておきたいと思います。

「宗」というのは、ものごとの「おおもと」だとか「根本」を意味します。ということは、「宗教」とは、「根本の教え(真理)」であると解釈できます。私たちが生きていく上での根本的な真理だということです。「乗」とは、乗り物のことです。そして、「自在」ですが、「自在」と言えば、「自由自在」という言葉が思い出されます。自分の思いどおりに操ることを言います。また「自在」は「自分に在る」とも解釈できます。自分の中に存在しているものということです。

これらを踏まえながら、「宗乗自在」という言葉を解釈していきます。すると、「自分の中に存在していて、自由に操ることができる根本的な乗り物」だということになります。自分の中に在って、自由に操ることができるもの―それは、実は「自分自身」なのです。

「クルマ社会」と呼ばれる現代において、「乗り物」というと「自動車」を思い浮かべる方が多いと思います。我々が日頃使っている自動車は道路交通法で定められた範囲内で運転することが義務付けられています。それを無視して、勝手に乗り回せば、当然、交通違反を犯したり、交通事故が発生したりすることになります。

それに対して、「宗乗自在」という乗り物、つまり「自分自身」とは、道路交通法のような外部からの法律による制限下で乗り回すものではありません。制限や規制がなく、どう乗り回そうが「自由」なのです。

その自由というのが要注意です。自由を取り違えてはなりません。法律のように外部からの制限がないということは、好き勝手にしていいということではありません。全てが自己責任なのです。ということは、しっかりと自分を律することができるようなものを自分で設け、それによって自分を律していかなければならないのです。それができて、初めて「自在」になるのです。

仏教には「戒律」という仏教徒の守るべき規範(仏教徒の生き方)があります。それが我々仏教徒の法律です。世間の法律と違って、戒律を犯しても罰せられることはありません。しかし、罰せられるかどうかというが問題なのではなく、戒律に準じ、戒律を自らの生き方に課して、その範囲内で自らに責任を持った生き方をしていくというのが、「宗乗自在」ということなのです。

そうした「宗乗自在」を念頭に置きつつ、「どういう姿勢で坐禅に向き合うのか?」という問いに対して、道元禅師様は、何か特別な功夫(工夫)をするような、そんな難しいことは、必要ありません。ありのままの自分、今・ここに生かされている自分を自己責任の範囲内で大切にして、坐禅の世界に没頭すればいいというのです。何か特別な準備をしたり難しい特訓をしたりしてから坐禅に臨む必要はなく、ありのままの姿で、あまり構えることなく坐禅を行じていただけたらということなのです。