第4回「悲愍(ひみん) ―“(あまね)く”汝に食を施すことを心がけて―

先亡久遠山川地主乃至曠野(せんもうくおんさんせんぢしゅなししこうや)諸鬼神等(しょきじんとう)()う来って(ここ)に集まれ、
我れいま悲愍(ひみん)して普く汝に(じき)を施す。

今回は「久遠(遠い遠い過去、永遠)なる先亡(既に亡きいのち)や、山や川を始め、この娑婆世界におけるあらゆる場所(地主乃至嚝野)に存在する諸々の鬼神たちに対して、この道場(私たちが読経供養をつとめさせていただいている場)に集まれ」という声かけがなされています。久遠なる時から存在している亡きいのちとは、私たちのご先祖様を指します。修証義第1章において、自分という存在から先祖を遡っていくとき、10代遡って、2046人のご先祖様の存在によって、今の自分が生かされていることを学ばせていただきました(詳しくはこちら)。そんな先祖代々を意味しているのが「先亡」なのです。

そんな「先亡」と共に道場にお呼びしている「鬼神」という存在ですが、梵天(ぼんてん)帝釈天(たいしゃくてん)のように仏法をお護りする善鬼神や、羅刹(らせつ)のような人畜の血肉を好む悪鬼神など、多種多様です。

そうした鬼神衆も含め、この世のあらゆる存在に招集をかけ、誰一人として残すことなく“(じき)”を施すことを願うのが、今回の一句です。甘露門における“食”は、“あらゆるいのちを生かし、救う存在”で、“仏法”を意味するものでした。それを善悪や良し悪し等、相手が発する表面的な見た目の違いに捉われることなく、どんな存在に対しても、取り残すことなく、普く平等に声をかけ、仏法を施しながら、救いの手を差し伸べていこうというのが、今回の一句が指し示す内容であり、目指すところです。

ここで、「普く」という言葉に注目しておきます。「普遍」という言葉があるように、「差別意識による取り残しのない、全ての存在」を意味するのが、「普く」です。ここには自分の好みだとか、価値観を最優先して、救う人と救わない人を分別しようとするような捉え方は一切ありません。そうした差別的な捉え方をしないよう留意していく上で、ポイントとなる心がけが「悲愍」です。これは、「慈悲(じひ)」とほぼ同義の意味を持った言葉として捉えておけばよろしいかと思います。すなわち、相手の苦悩を取り除き、安楽を与えんと願って発せられる言動ということです。

我が身を最優先にし、自分だけが救われればいいと考えている限りは何事もうまくいかないのは自明のことです。いかに周囲に目を向け、心を配りながら、言動を発していくことができるか―そうやって、自他共に救われ、私たちが生かされている娑婆世界は円滑に動いていくのです。どうか「悲愍」という心遣いを意識しながら、普く存在に目線を向けていけるよう、願うばかりです。