第12回「調心 —瀬戸大橋に息づく“仏のみ教え”-」

瀬戸内海をまたぎ、本州と四国を陸路で結ぶ「瀬戸大橋」。2015年(平成27年)に「世界一長い鉄道道路併用橋」としてギネス認定され、2017年(平成29年)には、「日本の20世紀遺産」に選定された“瀬戸内の名所”が誕生したのは1988年(昭和63年)4月10日のことでした。橋の全線開通までに要した時間は9年半、1955年(昭和30年)に発生した「紫雲丸事故」(国鉄・紫雲丸が引き起こした5回目の事故で、修学旅行中の小学生ら168名が亡くなった事故)が瀬戸大橋建設の機運を高めたそうです。

しかし、本州と四国をつなぐ橋の建設は、決して、容易なものではありませんでした。海底調査の結果、約35㍍にも及ぶ「堆積層」の存在が判明。橋の土台を設置するために、堆積層を除去する必要がありました。そのためにはダイナマイトの使用しか方法がなく、それでは、広大な瀬戸内海を自由に泳ぎ回る大量の魚たちのいのちを奪うことにつながり、瀬戸内の漁場で働く漁師たちの死活問題にも関わる重大事項でした。

「男は常に冷静沈着であらねばならない。いかなる苦境に立っても、うわずった声を出してはならない。悠々と構えよ、淡々と語れ。」この名言からは、坐禅によって、心が穏やかになっていく「調心」が指し示す、「常に心を調えながら言動を発していく生き様」がにじみ出ているような気がします。そこには、たとえ自分の思い通りにならないことに巡り合おうが、自分にとって不都合だと感じような出来事に出逢おうが、目の前の現実を全て受け止め、堂々かつ穏やかに生きる人間の姿が歴然とあります。そんな人物が本州四国連絡橋公団のリーダーとして、瀬戸大橋建設に携わった杉田秀夫氏(1931-1993)です。

瀬戸内海におけるダイナマイトを利用した工事を執行するに当たり、漁師たちを始めとする地元住民に対する説明会は約500回にも及んだとのこと。気性の荒い漁師たちの言動に対して、感情的になることなく、冷静かつ穏やかに事実を説明し、賛同を求めようとする杉田氏。まさに「いかなる苦境に立っても、、うわずった声一つ出さず、悠々と構え、淡々と語る」という言葉通りの人柄に、次第に漁師たちが共感を示し始め、ついには、一丸となって瀬戸大橋建設に向けて動き出したというのです。

「偉大なる人生とは何か、橋を作るよりもっと難しい人生がある。」これも杉田氏の名言です。人間は血のにじむような努力によって達成できることならば、いくらだって努力するのかもしれません。しかし、いくら必死に努力しても、人間の力だけではどうにもならないことがあるのです。この7月に熱海を襲った土砂災害を始めとする各種自然災害や新型コロナウイルスがそうです。また、人間の死も然りです。

この名言の裏には、ようやく地元住民の同意を得、架橋工事が始まった1978年12月24日に最愛の妻・和美さん(享年34歳)が胃がんで他界したことがあったような気がします。妻の病を知った杉田氏は、3人の娘さんや同僚たちにも誰にも打ち明けることなく、日中は仕事に打ち込み、夜は和美さんのベットの側で和美さんのお世話に身を費やし、朝になれば、自宅に帰って娘たちの朝食作りという日々が続いたそうです。

和美さんの病床で杉田氏は言いました。「もう2、3年すれば、仕事が一段落し、子どもの勉強を見る時間だってできる」と—。その言葉の通り、杉田氏は瀬戸大橋建設にある程度のメドがついたのを見届け、3人の娘さんたちと過ごす時間を選択。定時で帰宅できる部署への移動を望み、昇進の話も再婚の話も全て断って、3人の娘さんたちを立派に育て上げたそうです。

そして、いよいよ瀬戸大橋開通の日。その場には偉大なる功績を遺した杉田氏の姿はありませんでした。その頃、杉田氏は娘さんの一人と料理教室にいらっしゃったとのこと。これも杉田氏が自ら選んだ選択肢だったのでしょう。

そして、瀬戸大橋開通から1年が経過したある日。夕暮れの瀬戸大橋を疾走する乗用車の後部座席に杉田氏の姿がありました。その胸元には亡き和美さんの遺影が大切に握りしめられていました。

その4年後の平成5年(1993年)11月17日。杉田氏は自らも妻・和美さんと同じくガンを患い、3人の娘さんたちに看取られて、62年の生涯を終えられたとのことです。瀬戸大橋記念館には、この偉業を成し遂げられた杉田氏の銅像が静かに、そして、悠々とそびえ立っているとのことです。

常に調った心で過ごすことを意識しながら、縁に逆らうことなく、自らの役目を静かに受け止め、道一筋に生きてきた杉田氏。度重なる逆境に愚痴一つこぼさず冷静に向き合ってきた杉田氏。その生き様は悟りを得た仏の生き方に通ずるものであり、未だ修行足らずの我が身など、大いに反省させられるばかりです。「逆境の中でやり遂げる執念が必要だ。後の世の人に笑われない仕事をしよう。」これも杉田氏の名言です。特に逆境が積み重なったときほど、人間は感情的になりやすく、私もそんな傾向が強い未熟な人間の一人です。そんな自分の弱みを意識して、つとめて冷静になることを心がけながら、一つ一つの事を同時に対処できる力を養っていきたいものです。