第15回「蒙甘露法味陀羅尼(もうかんろほうみだらに)―あらゆるいのちに救いの手を―

曩莫(のうまく) 蘇嚕頗也(そろばや) 怛他蘖多也(たたーぎゃたや) 怛儞也佗たにゃた) 唵蘇嚕蘇嚕(おんそろそろ) 鉢羅蘇嚕(はらそろ) 鉢羅蘇嚕(はらそろ) 
娑嚩賀
(そわか)

「甘露門」における四つ目の“陀羅尼”として登場するのが、今回の「蒙甘露法味陀羅尼(もうかんろほうみだらに)」です。
「甘露」については、第1回「施食会(せじきえ) ―あらゆる精霊に“(じき)を施す”仏行―」の中で触れさせていただきましたが、「仏のみ教え」を意味するもので、お釈迦様の時代以前(ヴェーダ時代)から神(諸天)が不死を得る飲料水として存在していました。

そうした「甘露」がお釈迦様の時代に入り、悟りを得たお釈迦様のみ教えである仏法と同義の言葉として用いられるようになったわけですが、その「甘露」が悟りの味わいである「妙味」を有したものであるということを意味するのが、「法味」です。仏教の世界では、しばしば“妙”という言葉が登場しますが、これは「この上ない美しさや奥深さ」といったものを表現する際に用いられます。世間では“奇妙”という言葉にあるような“普通でない”とか、“変な”という意味合いで使用されることが多いですが、仏教においては、むしろ、そうした意味合いは薄く、言葉で言い尽くせぬ境地を表現していると捉えてしかるべきです。まさに、お釈迦様のお悟りであり、そのみ教えというものが、“妙”なるものであるということなのです。

そうした“妙”に加えて、もう一つ、抑えておきたいのが、“(もう)”です。“蒙”を用いた言葉として、多くの方が思い浮かべるのは“蒙古襲来(もうこしゅうらい)元寇(げんこう))”ではないでしょうか。これは鎌倉時代中期、東アジアと北アジアを支配していた元朝(モンゴル帝国)が二度に渡って、日本に侵攻してきたものの、暴風雨のために撤退を余儀なくされたという、日本の歴史に名を残した出来事です。この“蒙”という言葉には、“被る”とか“受ける”といった意味の他に、“道理に暗い愚かな者”だとか、“乱す”、“騙す”といった意味、“混じる”という意味もあります。ここでは、「法味」を持ち味とした「甘露(仏法)」という解釈で、“混じる”という意味を採用していきたいと思います。

そうした「甘露」を「一椀の水」のごとく、周囲のあらゆるいのちに施し、身心の渇き(飢え)の苦しみを癒し、安心を与えていこうと願うのが、「蒙甘露法味陀羅尼」です。前回の「無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼(むりょういとくじざいこうみょうかじおんじきだらに)」が一杯のお椀に盛られた飲食物を苦悩に満ちたいのちに施し、利益を与えていくことを願ってお唱えされるのと同様に、今回もお釈迦様の願い、仏教の目指すところが陀羅尼を通じて示されているのです。

そうした陀羅尼に込められた願いを受け止め、お盆の施食会法要の際には、正面に祀られた祭壇(施食棚(せじきだな))には、正面に一椀のご飯が、その右隣には浄水がお供えされ、法要中、導師(法要執行者)は、「甘露門」に提示されている各種陀羅尼をお唱えしながら、施食棚に進み寄り、食や水を周囲に振り撒いて(仕草のみ)、あらゆるいのちの苦悩を救済することをお誓いするのです。こうした仏教の願いを今一度、皆で共有しておきたいところです。