第26回「回向 ―仏道を(ひら)く―」

以此修行衆善根(いすしゅうあんしゅうせんげん)報答父母劬労徳(ほうとうぶもきろて)存者福楽壽無窮(そんしゃふらじゅうぶきゅう)亡者離苦生安養(もうしゃりくさんなんよう)
四恩三有諸含識
(すいんさんゆうしいあんしい)
三途八難苦衆生(さんずはなんくしゅうさん)倶蒙悔過洗瑕疵(きゅうもうくいこうせんなんすう)盡出輪回生浄土(じんしゅうりんぬいさんじんず)

―令和3年12月25日―クリスマスのこの日、北陸地方は強い寒気が流れ込み、午後から降雪。金沢市内も一晩で一面の銀世界となりました。金沢地方気象台によれば、28日頃までは大雪に警戒が必要とのことです。

今日は檀家参りの合間を縫うようにして、早朝から高源院と松山寺の除雪作業を行いました。まだ人が通っていない雪を踏みしめると、雪が押しつぶされ、道ができていきます。それと同じように、仏道というものも、仏のみ教えを日常生活の中で実践していく中で、切り拓かれ、道となっていくことを、「甘露門」の最後となる「回向」を読み味わっていく前に押さえておきたいものです。

「回向」については、以前、こちらでもご紹介させていただいておりますが、善行の功徳を周囲に巡らせ、仏とのご縁を深める行いを意味しています。

この定義に従うならば、「甘露門」における「回向」は、これまで示されてきたみ教えの功徳を周囲に巡らせる役割を担っていることに気づかされます。言わば、「甘露門」に帰依し、その一字一句を大切にしながら日々を過ごす者に対して、さらに自らの身心を調え、仏縁を深めていくことを願うのが「回向」なのです。

回向の冒頭に「以此修行衆善根」とあります。『これまでお示ししてきた「甘露門」のみ教えを修行した功徳を』ということですが、それを「報答父母劬労徳」とあるように、父母の苦労や徳に対して、巡らせていこうと示されています。「劬労」という言葉が使われていますが、これは「一生懸命に骨を折る」という意味があります。今日まで自分を育ててきてくれた父母に対する計り知れない労苦に思いを馳せ、そのご恩に報いるべく、「甘露門」を読経し、その功徳を差し上げていこうということなのです。こうした「父母の劬労に報いる」ことを誓うことによって、自分自身の日常を見つめ直す仏縁が育まれ、次第に仏へと近づいていくのでしょう。

そうやって、「存者福楽壽無窮」・「亡者離苦生安養」が実現していくのです。前者は「存者(生きている者」に対して、後者は「亡者(亡くなった方)」に対するものです。私たちが「甘露門」のみ教えに生きていくことによって、生きている者は福楽かつ壽(幸せ)が尽きることがなく、亡き人々は苦しみを離れ、心を安らかに身を調える地に落ち着くことができるというのです。曹洞宗では亡き人を仏のお弟子様として、仏の世界にお送りしますが、「安養」というのは、まさに仏の世界のことであり、そこに趣きし者たちは、安らかに自らの身心を養っていくことができるのです。

次に「四恩三有」とあります。「四恩」は「父母恩・衆生恩・国王恩・三宝恩」の4つを、「三有」は「三界(さんがい)」を指しています。これは「欲界(よっかい)色界(しきかい)無色界(むしきかい)」とされ、私たちが生かされている世界を3つに分類したものです。すなわち、含識(人間始め生きとし生ける全てのいのち)が存在する全ての世界は勿論のこと、三途八難(亡き者の世界や六道などの仏とのご縁が薄い世界)の存在も含め、「倶蒙悔過洗瑕疵」(皆が自らの過失を悔い改めること)によって、「盡出輪回生浄土」(浄土に赴くことができる)というのです。

こうして26回に渡り「甘露門」のみ教えに触れてまいりましたが、やはり「甘露門」においても、仏のみ教えに生きる者は身心が調い、日々の様々な苦悩から解放されていくことが説き示されています。すなわち、「甘露門」の結論は仏教の指し示すところと何ら変わりなく、同じ方向を向いているのです。

たとえ平易な言葉で示された理解が容易なみ教えであったとしても、それを我が事として受け止め、日常生活の中で実行していくことは容易いことではありません。「仏教徒は何か」と問う唐代の詩人・白楽天(はくらくてん)に対して、道林(どうりん)和尚が「3歳の子どもでも理解できる教えであっても、80歳の老人でも実行するのは難しい」とお示しになった問答がありますが、教えを自らの身心で実践し続けることによって、道が開けていくのです。そうやって出来上がっていく道が「仏道」であるということを最後に抑え、私たちそれぞれが「仏道」を拓きながら、日々を過ごしていくことを確認し、「甘露門」の解説を終わらせていただきます。長きに亘り、お付き合いいただき、ありがとうございました。