一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第1回「菩提心(ぼだいしん)(おこ)すというは、世間の生滅無常(しょうめつむじょう)を観ずること」

右、菩提心とは、多名一心(たみょういっしん)なり。竜樹祖師(りゅうじゅそし)の曰く、
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だ世間の生滅無常(しょうめつむじょう)を観ずるの心も(また)菩提心と名づくと。
(しか)
れば、(すなわ)(しばら)()の心に()るを、菩提心と()すべき者か。

大本山永平寺開祖・道元禅師様が仏道を歩んでいく上で、最初に掲げていらっしゃる重要なポイントは「菩提心を(おこ)すこと」です。この「菩提心」については、今まで「修証義(しゅしょうぎ)」などでも触れてまいりましたが、まさに仏道修行を修していく上で、決して、外すことのできない点であることを、今一度、確認しておかなくてはなりません。

「菩提心」とは、「道心(どうしん)」とも言い、自分の本来の姿によって発せられる自らの本心のことを意味しています。すなわち、何ら混じり気のない、純粋でよく調いし仏の心です。

そんな菩提心を発すことを、「修証義」では「自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心を発すこと」であると説いています。すなわち、よく調いし心を大前提としつつも、自分を最優先するのではなく、周囲にしっかり目を向け、心を配りながら、皆が幸せになるような言葉や行いを発していくことを指しているのです。

それに対して、「学道用心集」では、道元禅師様は「菩提心とは世間の生滅無常を観ずることでもある」とお示しになっています。そして、この見解が竜樹祖師のみ教えによるものであるとおっしゃっています。竜樹祖師は、またの名を那伽曷樹那(なぎゃはらじゅな)とも申し、2〜3世紀頃の西天二十八祖(さいてんにじゅうはっそ)(釈尊の法を嗣ぐ者)のお一人として、著名な仏教祖師です。静寂な環境を求め、一人深山幽谷に入って仏道修行に励むことは、独りよがりになるだけで、却って、仏道から遠ざかると説き、人と関わり、正師(しょうし)を求めることの大切さをお示しになった方でもあります。師のみ教えは、大本山總持寺開祖・瑩山(けいざん)禅師様も「坐禅用心記(ざぜんようじんき)」の中で引用しており(詳しくはこちらをご覧ください)、曹洞宗の両祖様からの注目度の高さという点でも、偉大なる祖師のお一人であることが伺えます。

そんな竜樹祖師がお示しになっている「菩提心を発す」というのが、「無常を観ずることである」という点に着目し、内容を味わってみたいと思います。菩提心は「多名一心」とあるように、様々な呼び名がある一方で、その目指すもの(心)は一方向のものであると道元禅師様はおっしゃっています。それが「無常を観ずる」という方向性だというのです。

「無常」というのは、「常が無い」とあるように、万事が変化していくことを意味しています。なぜ、万事は変化してくのでしょうか―それは、この世には時間という存在があり、それと関わっているからに他ならないからです。

1月8日から10日にかけて、各地で成人式が営まれました。成人式では20年前に生まれたいのちが健やかに成長し、大人の仲間入りを果たしたことをお祝いするわけですが、こうした変化は喜ばしいものであります。ところが、成人したいのちは、次第に老いていき、病を抱え、最期には死を迎えます。こうした変化を多くの人は忌み嫌うかもしれませんが、これも私たちに必ず訪れる現実です。

大切なことは、こうした現実に対して、表面的な良し悪しに捉われ、一喜一憂するのではなく、どんな変化も我が事として認め、受け止めていく姿勢を持つことです。そうした捉え方ができるようになることは、物事を正しく受け止められるようになることであり、そういうところから菩提心が芽生えていくのです。

こうした無常という道理・現実を我が事ととして認めながら生きてこられたのがお釈迦様始めとする仏教の祖師方です。そもそもお釈迦様のお悟りというのは、万事が関わり合い、支え合って存在しているという「縁起(えんぎ)」の道理にお気づきになったということでした。時間との関わりによって、様々な変化が我が身にも生ずるということを受け止められるようになるのも、道理に気づくということなのです。そして、そうした捉え方によって、「自未得度先度他」という、周囲に目を向け、周囲を思う力も次第に培われていくのです。だから、「自未得度先度他の心を発す」ことも「無常を観ずる」ことも、共々に菩提心を発すことにつながっているのであり、どちらかが正しく、どちらかが間違っているということではないのです。

そうやって私たちの中に存在していた菩提心が露わになっていくと共に、佛へと近づいていくのです。それゆえに、道元禅師様は無常を観じて菩提心を発すことをお勧めになっていることもまた、押さえておきたいものです。