第2回 修証義生誕の背景 
―明治期の仏教界、その危機と復活―
仏教の原点はお釈迦様のお悟りです。お釈迦様は今から約2600年前の12月8日の明け方、坐禅をしながら悟りを得たと伝わっております。

ところで、お釈迦様のお悟りとは何だったのでしょうか−?

それが「縁起(えんぎ)(この世の全ての存在がつながり、関わり合っているということ)」です。たとえば、世界中を見渡してみるに、コロナと無関係で、感染の心配は全くないという人は誰一人としていないはずです。誰もが感染のリスクを抱えながら毎日を過ごしています。「皆がコロナとつながり、関わり合っている」―これぞ「縁起」ということなのです。

そうした縁起の世界に、私たちはご両親様から先祖代々伝わるいのちをいただき、生かされています。「縁起の世界において、どう生きて、どう死を迎えるのか?」―それを指し示している経典の一つが「修証義」です。

そもそも修証義は1890年(明治23年)、曹洞宗の大本山永平寺・滝谷琢宗(たきやたくしゅう)禅師(1836−1897)と大本山總持寺・畔上楳仙(あぜがみばいせん)禅師(1825−1901)によって完成された曹洞宗の大意や僧俗共通の安心(あんじん)が示された経典です。1890年というと、今から130年ほど前ということですから、お経としては新しい部類に入ります。

明治時代は約260年に渡る徳川政権が終焉を迎え、新しい思想を有した明治政府よる新しい政策が展開されていった時代です。(下記一覧表参照)

江戸時代 明治時代
仏教を保護 神道中心の政策・神道の国教化
神仏習合 神仏分離・崇神廃仏
僧侶の役目
 戸籍の管理、葬祭の執行、布教活動
僧侶の権利のはく奪
 葬祭や布教活動の禁止⇒神主に移行
廃寺

江戸幕府によって手厚く保護されていた仏教界も、明治政府が展開していった方針によって、神道重視による仏教軽視や権利のはく奪等、今まで経験したことのない危機的状況に瀕することになりました。こうした動きに対して、反発の意を表明したのが、浄土真宗の学僧・島地黙雷(しまぢもくらい)氏を始めとする真宗四派(本願寺派・大谷派・高田派・仏光寺派)で、明治政府に建白書を提出し、その意を表しました。

こうした動きに対して、旧習を見直し、新しい時代における仏教の姿を追求・実現しようとした改革の動きもありました。その最前線にいた人物が大内青巒(おおうちせいらん)氏(1845−1918)です。氏は一宗一派にこだわらず、仏教界全体と関わり、仏教の改革運動や啓蒙活動に尽力され、晩年は東洋大学第3代学長もおつとめになりました。大内氏が曹洞宗と関わる中で、当時の宗門は「出家=坐禅、在家=往生念仏(おうじょうねんぶつ)」といった具合に、安心を求める方法が立場によって違っていた点に着目し、僧俗共通の安心の明文化を目指されたのでしょう、そうやって誕生したのが「洞上在家修証義(とうじょうざいけしゅしょうぎ)」なる現行の修証義の原点となる経典でした。

こうした仏教界の動きを受けた明治政府は比較的早い段階で、方針転換を余儀なくされ、仏教は再び、世間の日の目を浴びることができました。まさに“華麗なる復活”といったところでしょう。

そうした大内青巒氏が遺された「洞上在家修証義」を、後に両大本山の禅師様が関係各位の意見も参考にしながら、吟味・編纂され、1890年、いよいよ修証義は世の中に発布されていくのです。   【第3回へ】