第3回 (しょう)(あき)らめ、死を明むるは 
生を明らめ、死を明むるは仏家一大事(ぶっけいちだいじ)因縁(いんねん)なり
「この人間世界において、自分がどう生きて、どう死を迎えるのかをはっきりと明確にしておくことが仏教徒にとっての最重要課題の一つである。」という一句から修証義は始まります。

私はこの一句は仏教の開祖であるお釈迦様のご生涯を端的に言い表した一句であると受け止めています。

そもそもお釈迦様は人生の問題に悩まれ、出家なさったと伝わっています。それは、人間は「なぜ、年を取るのか」、「なぜ、病気になるのか」、「なぜ、最期には死を迎えるのか」という疑問でした。この問いかけに回答を見出してくれたのが「縁起(えんぎ)」という、この世の道理です。私たちが生かされている娑婆世界には時間が流れています。そうした時間との関わりがあるがゆえに、万事は変化します。たとえば、生まれたいのちはすくすくと成長し、やがては成人となります。大人の仲間入りを果たしたことを祝って営まれるのが「成人式」ですが、こうした変化は我々にとっては嬉しくおめでたいものですす。ところが、そうやって大人になったいのちは、次第に老い、病気を抱え、やがては死を迎えます。これは私たちにとって、喜ばしくない変化であり、忌み嫌う変化であると捉える方もいらっしゃるかもしれません。しかしながら、どちらも私たちに起こる変化なのです。

こうして我が身に起こる変化というものに対して、自分の視点だけで良し悪しを決めていくような捉え方をするのではなく、どんな変化も他人事ではなく、我が事として受け止めていくのが仏の変化の受け止め方なのです。まさにお釈迦様もそうやって変化を我が事として受け止めながら、生を明らめ、死を明らめ、80年のご生涯を全うなさったのです。是非、見習っていきたいものです。

そんなお釈迦様のご生涯には「仏」が存在していたというのです。それが次の一句です。

生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし
(お釈迦様は)「仏として生き、仏としてお亡くなりになった」と言いますが、それは、どういうことなのでしょうか?
坐禅をなさったことがある方は、坐禅中のご自分の姿を想像していただくとよろしいかと思います。姿勢を調え、背筋を伸ばして安坐していると、段々と穏やかな気持ちになっていきます。すなわち、心が調っていくのです。そして、そうした心境から発せられていく言葉や言動も自ずと穏やかで調ったものになっていきます。そうした言葉・言動というものを、今のコロナ禍のような大変な状況下であったとしても、常に意識して提示していく生き方が「仏として生きる」ということなのです。どうか仏の方を向いて生きていくという方向性だけは間違えないようにしていきたいものです。

(ただ)生死即ち涅槃(ねはん)と心得て生死として厭うべきもなく涅槃として(ねが)うべきもなし
是時(このとき)初めて生死を離るる分あり

突き詰めていけば、いただいた先祖代々のいのちを最期が来る瞬間まで徹底的に生きていくことが「仏として生きる」ということなのです。そして、いよいよお迎えが来たときには、ジタバタすることなく、心静かにその現実を受け止め、我が身を委ねていくというのが、「仏として死ぬ」ということなのです。
「涅槃」は身心共々に穏やかで調っている悟りの境地を指します。「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」とあるように、仏として生き、仏として死んでいくとき、それまでは生きることを尊いことと捉え、死を避けるべきもの、嫌うべきものと分けて考えていたかもしれませんが、どちらも仏のみ教えに満ちた仏の行いであり、尊いものであるという認識が芽生えてくるのです。それが「生死を離るる分あり」の意味するところです。

只一大事因縁と究尽すべし
修証義は、こうした仏として生き、仏として死んでいくということを我が生き方と捉え、生涯に渡って究め尽していくべき人生の課題として、我々に強く願い、推奨しています。だからこそ、この一句には重みがあります。
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