一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第4回「周囲の外部環境に左右されない生き方」

(たと)緊那迦陵(きんなかりょう)讃歌(さんか)音声(おんじょう)を聞くも、夕べの風、耳を払う。
縦い毛嬙西施美妙(もうしょうせいしみみょう)容顔(ようがん)を見るも、朝の露、眼を(さえ)ぎる。

―「紅顔(こうがん)いずくえか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし」―
これは「修証義(しゅしょうぎ)第1章・總序(そうじょ)」に示される“諸行無常(しょぎょうむじょう)”の道理を明快に説き示した一句です。ここでは、「若かりし頃は絶世の美男美女と称された方も、時間の流れの中で年齢を重ね、あの頃の美しさが一体どこへ行ってしまったのかと思ってしまうほどに、跡形もなく、変化していくものである」ということが示されていますが(詳しくはこちらをご覧ください)、これぞまさに、諸行無常を具体的に捉えた場合の一つの具体的事例ではないかという気がします。

こうした「修証義版・諸行無常の具体例」に対して、今回の一句は「学道用心集版・諸行無常の具体例」といった内容です。「学道用心集」でも「修証義」同様、時間とともに変化していく人間の姿を具体的な事例として提示していますが、使用されている言葉は異なります。「緊那迦陵」は「緊那羅(きんなら)」とも言い、類まれな美声の持ち主で、歌や音楽で帝釈天(たいしゃくてん)(仏法をお護りする神様)に仕えたとされています。「毛嬙」や「西施」は古代中国における美女です。いずれも表面的には、“美”という強みがあり、その力で以て、周囲を喜ばせることができる存在であることは確かです。

悲しいかな、我々人間世界では、「第一印象」が決め手となってしまう場面が多々あります。そのため、誰もがイケメンと認める方々であったり、経験や知識も豊富で、話術に長けた方などは、周囲からの評価が高くなる傾向が強く、どこか得をしているように感じることが多いような気がするものです。

しかしながら、こと仏の世界においては、いくら相手が美男美女であろうが、知識や話題も豊富で、人々を魅了するようなお話ができる方であろうが、そうした表面的な情報(たとえば、自分の五感だけで素晴らしいと感じてしまう範疇のもの)のみで左右されるようなことがあってはならないと、道元禅師様はお示しになっています。美しき歌声も「夕べの風、耳を払う」とあるように、一瞬、耳に入ってきて、人々の心を動かすだけで、そこに一喜一憂してはならないというのです。また、美男美女が目の前にいたとしても、「朝の露、眼を遮ぎる」とあるように、目を奪われ、動揺しているようでは仏道修行者とは言えないというのです。

当然ながら、これらとは反対に、あまり耳障りの宜しくと感じる音痴な歌声だったり、自分に対する罵声や批判の類、あるいは見た目に受け容れがたいと感じる人が眼前にいたとしても、その度に心を揺れ動かしているようでは仏道修行者とは言えないということも、道元禅師様はお示しになっています。要は周囲の存在に対し、見た目の情報といった、表面的な部分だけに捉われて、相手を判断するような態度は、仏道修行者のあるべき姿ではないというのです。相手が誰であろうが、差別なく、分け隔てなく受け止めていくのが仏道修行者だというのです。なぜならば、私たちが関わる周囲の一つ一つの存在が、諸行無常の道理にさらされ、変化していくからなのです。今、自分の眼前に存在している全てが、時間の流れの中で、変化しながら、今という時間・ここという場所に存在しているのです。中には、様々なご縁の中で、自分の眼前に存在する前に、消えていったものも多々あるはずです。それを思えば、今・ここにおいて、ご縁をいただけることが、どんなにありがたく、すばらしいことなのか。よくよく考えを巡らしておきたいものです。

「諸行無常なるがゆえに、周囲の外部環境に左右されない」―それが仏道修行者の在り方であるということを心に留め、日々の生活を過ごしていきたいものです。