第25回 「卒暴なるべからず ―“安楽の日常生活”を目指して―」

()し坐より()たば
徐徐(じょじょ)として身を動かし
安祥(あんしょう)として()つべし
卒暴
(そつぼう)
なるべからず


今回は坐禅が終わってからの注意点が示されています。

毎夏、曹洞宗石川県青年会が主催となり、2日間の日程で「子ども禅のつどい」が開催されます。これまで青年会員の一員として、携わらせていただき、幾度か坐禅指導の場もいただきました。毎年、参加するお子様もいれば、初めて参加するお子様もいらっしゃいます。しかし、坐禅の経験があろうがなかろうが、その技術に上手い・下手があるわけではありません。どの子どもたちも普段は学校に通い、習い事に勤しむなどの日常生活を送っており、坐禅をする機会はあまりないと思われます。ですから、経験者でも初体験のような感覚で臨んでいるのではないかという気がします。

そんな子どもたちが一定時間の坐禅を終えると、これまでの足の痛みや、じっと動かずにいたことの苦痛など、どちらかと言えば苦しみから解放されたような気分になるのでしょう、ついつい声をあげたり、伸び上がったりしてしまいます。これは致し方ないことなのでしょうが、道元禅師様は「卒暴(大声を出したり、激しく身体を動かしたりすること)なかるべからず」とおっしゃって、注意を喚起します。坐禅は坐禅堂に入って、坐禅を組んでから、お堂を出るまでの全てが修行です。ですから、坐禅が終わったからと言って、気が抜けて、声を出したりするのではなく、「徐徐として身を動かし、安祥として起つべし」とありますように、ゆっくりと身体を動かし、静かに立ち上がるようにと道元禅師様はおっしゃっているのです。

この一句を通じて、道元禅師様がお示しになっているのは、「坐禅をしている周囲の人々に配慮するということ」です。「徐徐として身を動かし」とか、「卒暴なるべからず」といった、周囲のいのちに気を配りながら、迷惑をかけないような立ち振る舞いであるとか、その場に相応しい言動が求められるということです。

こうした周囲への配慮・気配りというのは、道元禅師様が常日頃からお示しになっていることです。たとえば、「典座教訓(てんぞきょうくん)」では、修行僧の食事作りを司る典座(てんぞ)の仕事を、坐禅と同じ仏道修行という次元にまで高めて捉えると共に、修行僧が身心共々に健康に仏道修行に励むことのできる食事作りを施す上でのみ教え等が説かれています。また、「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」では、そうやって典座がこしらえた食事を、仏道修行としての観点からいただく上で、留意すべき作法等が示されています。これらの経典を通じて、周囲で食事をいただいている方々に配慮した食事作法や食器の扱い方が示されているのです。坐禅であれ、食事であれ、そこには必ず誰かがいます。そうした全てのいのちに配慮し、皆が気持ちよく過せるように取り計らっていくことが、禅の修行なのです。自分だけが悟りを得られればいい、救われればいいというものではありません。

これは仏道修行の世界だけに限ったことではありません。私たちの日常生活全般に通じることです。新型コロナウイルスが騒がれ始めた2月の終わり頃、ある会合で、マスクをつけている参加者を見て、「騒ぎすぎではないか。」とおっしゃった方がいらっしゃいました。ご自身はマスクをつけていらっしゃいませんでしたが、マスクをするのは感染拡大防止だけが理由ではありません。周囲の人々に不安を与えないようにするための配慮でもあるのです。どうか坐禅を通じて、お互いに周囲のいのちとの関わりを意識しながら、周囲に気を配っていくことを心がけていきたいものです。それが「安楽の日常生活」の実現へとつながっていくのです・

毎夏の「子ども禅のつどい」は、残念ながら、令和2年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、お休みとなります。坐禅を通じての子どもたちとの関わりの中で、毎年、考えさせられることや反省させていただくことが多々ありますが、坐禅に触れあうことができる機会として、これからもご縁のある限り、関わっていけたらと思っています。