一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第12回「発菩提心(ほつぼだいしん)の追求―諸行無常の世で真実に生きる道を歩む―

()くの如きの(やから)(いま)だ菩提心を知らず。(みだ)りに菩提心を(ぼう)す。
仏道の(なか)に於て、遠して遠し。

「菩提心を発す」ということについて、道元禅師様からかなり厳しい表現を伴う形で留意点が発せられているのが、今回の一句です。その“厳しい留意点”というのは、一体、どんなことなのでしょうか。

それは、「むやみやたらと菩提心を論じ合うこと」です。「一念三千(いちねんさんぜん)観解(かんげ)」や「一念不生(いちねんふしょう)法門(ほうもん)」などといった言葉が登場し、「菩提心」に対する理解が深まっていますが、道元禅師様がお示しになっているのは、「菩提心を発すべき事」であることだけは、決して、忘れてはいけません。

前回、道元禅師様の仏法が「行の宗教である」というお話をさせていただきました。先日、その道元禅師様がお示しになった「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)行持巻(ぎょうじのまき)」を読んでおりましたところ、「諸仏諸祖(しょぶつしょそ)の行持によりて、われらが行持見成(ぎょうじけんじょう)し、われらが大道通達(だいどうつうだつ)するなり。」という一句に巡りり合いました。お釈迦様から脈々と伝わる仏法というものは、多くの祖師方が行(自らの行い・実践・修行)によって(たも)(保持)ち続けてきたことによって、今日まで伝わってきたということです。これはまさに、「教授戒文(きょうじゅかいもん)」のみ教えを引用するならば、「仏の慧命(えみょう)を嗣続する」という、「不殺生(ふせっしょう)(殺すことなく生かすこと)」という行なのです。

そうした行によって、「菩提心」というものも今日まで伝わっているわけですが、そこを押さえることなく、「菩提心」を「心の問題」と捉え、やれ、「一念三千の観解」や「一念不生の法門」などと、言葉尻だけを捉えて、あれこれ議論し合うような知的理解では、到底、菩提心が次世代に伝わっていくことはないというのです。そもそも、そうした知的理解によって、菩提心というものが、今日まで伝わってきたわけではありません。そこは熟知しておくべきところです。そして、それは仏教全般に渡って通ずることなのです。知的理解を目的とした言葉の論じ合いや議論展開は、お釈迦様が「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」の中で、「戯論(けろん)」として戒められたものであることを、再確認しておきたいところです。(詳しくはこちらをご覧ください)

「行の宗教」や「仏の慧命を嗣続する」という観点から、仏道修行にとって、何が重要なのかと申し上げるならば、「菩提心を発す」ということなのです。「菩提心」と「菩提心を発す」では、同じように見えて、全く、違います。後者には、行(実践)という側面があるのです。すなわち、諸行無常なるこの世にいのちをいただいた自分が、真実に生きる道を歩んでいく上で、「菩提心を発す」というみ教えをお釈迦様からいただいたのであれば、「どう生きていくことが菩提心を発することなのか」を、常に自らの生き様の中で問いかけ、行じていくことが大切であるということなのです。

「菩提心」は勿論のこと、数多の仏教のみ教えを知的理解を目的として、頭で考えたり、言葉を用いて理解していこうとする姿勢で仏道を歩んでいく者は、道元禅師様が「菩提心を知らず、猥りに菩提心を謗す」とおっしゃるように、「菩提心というものの十分に理解できていないばかりか、却って、仏を謗る者」なのです。また、「仏道の中に於て、遠して遠し」からもわかるように、「仏の道から遠くかけ離れた方向に進んでいる者」でもあるのです。そうした道元禅師様の厳しいお言葉を、我々仏道修行者一人一人を心底思いやる愛語と捉え、「発菩提心」を追求しながら、諸行無常の世を歩んでいきたいものです。