第5回  「本来の自分」

(いわ)んや全体遥かに塵埃(じんない)()
(たれ)
払拭(ほっしき)の手段を信ぜん
大都当処(おおよそとうじょ)を離れず
(あに)
修行の脚頭(きゃくとう)を用うる者ならんや


以前、ある他宗派の僧侶と話していたら「曹洞宗はうらやましいですね。」と言われたことがありました。

なぜ、彼は「うらやましい」と思うのか・・・?

「曹洞宗には坐禅があります。世間には坐禅を体験してみたいという人は大勢います。坐禅は絶対的な強みだと思います。私たちの宗派には坐禅のような魅力的な強みはありません。そこが曹洞宗のうらやましいところです。是非、世間に坐禅を発信して、お寺を開放してください。」―彼はそう続けました。

その意見に私は強く引き込まれるものを感じました。自分たちの宗派の大切な修行であり、日々の生活の一部となっている坐禅が、かほどに魅力的に見えるものなのか・・・?彼の言葉は私に新たな視点をもたらすと共に、自分の背中を大きく後押ししてくれました。

しかしながら、私が住職をつとめる高源院において、毎週日曜日の夕方に坐禅会を開催していますが、ここ数年は同じメンバー2.3人でつとめさせていただいています。内容的には他所のお寺の坐禅会にも見劣りしないという自負!?はあります。しかし、人数的な側面から見れば、先の僧侶がおっしゃるような世間から注目されているという印象はあまり感じられないのが実際の所です。

こうした現状を見るに、「やはり、坐禅は特別視されているのだろうか?何か難しい、非日常的なものだと思われているのだろうか?」―そんなことを思うこともあります。

しかし、道元禅師様のお答えは「何ぞ功夫を費やさん」というものです。坐禅を難しく考える必要はないというのです。なぜなら、見も聞きもしていない未経験のことに対して、事前にあれこれ考えることが、自分を仏道から遠ざけてしまうからです。大切なのは「あれこれ考えず、今・ここにいる自分が坐禅に臨むことだ」ということです。とにかく「体験してみなさい」と道元禅師様はおっしゃるのです。

一見したところ、「今の自分」というのは、煩悩に満ちた仏の世界からは程遠い存在のように感じます。しかし、元来、自分という存在は清浄だったはずです。道元禅師様は誰もが仏になる性質(仏性)を持っていると説かれます。皆、生まれたばかりのときには、綺麗な心があるのです。それなのに、人間として生きていく中で、どこかに忘れてしまっているだけなのです。それを取り戻していくことが仏道修行なのです。

もともと清浄な心を持った人間だから・・・
わざわざ塵や埃を払ったり、雑巾で拭いたりして、掃除をする必要がないのです。
また、今の自分を大きく変えようと、どこか遠くへ場所移動するような必要もなければ、少しでも早く、簡単にそこへ行こうとする必要もありません。
今のままの状態で坐禅に臨めばいいのです。
そして、幾日も幾日も坐禅を行ずる中で、仏の世界へ向かう一本の道が完成していくのです。