「戒 ―自らの意志で行動する―」
仏弟子となること必ず三帰に依る
何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて、
其後諸戒を受くるなり
然あれば、即ち三帰に
仏教徒にとって、「三宝帰依」が欠かせないということを道元禅師様は再三に渡って説いていらっしゃいます。なぜならば、「
こうした内容を踏まえながら、今回の一句を見ると、まず“仏弟子”という言葉が登場しています。そのまま解釈すれば、“仏様の弟子”ということですが、これぞまさに三宝帰依する仏教徒のことなのです。それも、たった今、仏教徒として目覚め、三宝に帰依していくことを誓った人という意味で解釈していけばよろしいかと思います。ここでは、お釈迦様の世界に身を投げ入れ、お釈迦様の足下に立った人にとって、「三帰」が欠かせないと説かれているのです。
「三帰」とは何か・・・?仏弟子に欠かせぬものとは「三宝帰依」でした。ですから、「三帰=三宝帰依」なのです。
次に「戒」という言葉が出てまいります。「戒」は仏教における重要なみ教えの一つですが、修証義の中では、今回が初めて、それも突如として登場したような印象を覚えます。一般的に解釈するならば、「戒め」ということですが、仏教における「戒め」とは「お釈迦様の戒め」、即ち「仏戒」です。すなわち、お釈迦様が自分自身に誓った戒めのことです。それは、決して、「してはいけない」と他から強いられたものではなく、自らの意志で「やらない」と誓いを立てたものです。今後、修証義を読み進めていくうえで、仏戒がより具体的に説き明かされていきますが、ここでは、仏戒が‟自発的な誓い”であるということを押さえておきたいと思います。
そんな自発的な戒というものは、自発的に三宝帰依することによって必然的に身につくものだと道元禅師様はおっしゃいます。それは、いくら、他人に勧められたとしても、自分の意志で誓ったものでなければ、本物が身につかないということです。何事も自分の意志で決め、自分で行動して身についていきます。人様の真似ばかりしていては、いつまでも本物にはなれないということです。これはまさに、「自灯明・法灯明(自らを灯りとし、法を灯りとして生きていこう)」のみ教えにも通ずるように感じます。
「然あれば、即ち、三帰によりて得戒あるなり」―自らの意志で仏弟子(仏教徒)になりきることによって、お釈迦様の戒法が身につくということを訴えているのです。