第15回「首章・拈提⑧ 瑩山禅師様の問いかけ」
【拈提】
諸人の瞿曇と与に成道するか。
瑩山禅師様が我々にお釈迦様の成道の意味を再確認させるべく発せられた「何を呼でか、成道底の道理とせん。」の問いかけ。そこから更に一歩踏み込んだ形で問いかけがなされていくのが、今回の一句です。キーワードとなるのは‟与”です。この言葉は、お釈迦様が三十歳
瑩山禅師様は「且問す、大衆」とあるように、大衆(修行僧たち)に且問(試問すること)という形で以て、問いかけます。「瞿曇(お釈迦様)の諸人(凡夫・一般人)と与に成道するか、諸人の瞿曇と与に成道するか。」―ポイントは「与」の解釈です。お釈迦様のお悟りが「縁起の道理」という、「この世の全ての存在がつながり、関わり合い、支え合っている」であったことから推察するならば、一つ一つ全く異なる存在であるもの同士がつながり合っている関係性において、お釈迦様が成道なさったとき、周囲の関わり合っている全ての存在もまた、一緒に成道なさったと捉えることができるでしょう。この点については、「拈提」の冒頭部でも触れられています(詳細は第9回をご覧ください)。そうなると、「瞿曇の諸人と与に成道する」という問いかけが成り立つことは確かであると言えるでしょう。
では、その反対とも言える「諸人の瞿曇と与に成道するか」という問いかけは成立するのでしょうか。確かに、縁起の道理からいけば、瞿曇と諸人はつながり、関わり合っていますから、成り立たないことはありません。
しかし、お釈迦様の成道ということに主眼を置いてみたとき、お釈迦様が三十歳臘月八日にお悟りを得たことから全てが始まっていることになるのです。成道なさったのはお釈迦様であり、諸人ではありません。しかしながら、お釈迦様の成道によって、お釈迦様とつながっている諸人もまた成道できた、すなわち、お釈迦様が成道の手本を提示なさったことによって、諸人が成道の機縁をいただくことができたと解するのが妥当ということなのです。そういう意味から、「瞿曇の諸人と与に成道する」という問いかけが成立することに気づかされるのです。
我々凡夫は毎日の過ごし方次第で仏にも近づければ、凡夫になり下がったままで過ごすこともできます。‟与”の一文字が持つ深遠なる背景に思いを巡らせながら、お釈迦様の成道あって、我々凡夫が仏のお悟りに近づける喜びを噛み締め、周囲とのつながり、関わり合いを大切にして、今日もお釈迦様を目指して仏道を歩んでいきたいものです。