第11回 「余道(よどう)に帰依せざれ! ―三宝帰依を誓ってA―

帰戒(きかい)授與(じゅよ)すること(かく)の如し。今自(いまよ)り以後、如来至眞等正覚(にょらいしいしんとうしょうがく)は、
是れ(戒名)が大師(だいし)なり。更に余道等(よどうとう)に帰依せざれ。
南無大慈大悲
(なむだいずだいひ)
大哀愍故(だいあいみんこ)

曹洞宗の葬儀では、娑婆世界での生縁(しょうえん)が尽きた故人様が、仏界へと赴き、新たに“仏弟子”として生まれ変わることを願います。こうして故人様の死をきっかけとして、遺された者たちが仏法僧の三宝とご縁を結ぶと共に、それぞれが生涯に渡って、三宝を拠り所としながら、人間としての正しい生き方を全うしていく機縁となることを願って、儀式が営まれるのです。

成仏(じょうぶつ)」という言葉があります。一般的には生縁尽きた者が仏界に赴いて、「仏に成る」という意味で使われていますが、通夜・葬儀始め、年回忌のご法事やお盆などのご法要等、それらは仏のみ教えに触れ、仏に近づく機会であるという点では、成仏の場とも捉えることができます。そういう機会を通じて、私たちが仏に近づいていくとすれば、成仏は死後の世界のことだけではなく、むしろ、今を生かされている我々一人一人に与えられている“生きる課題”であり、“生きる目標”と捉えることができるでしょう。

そうした成仏の第一歩として、故人様は導師様から「南無帰依仏(なむきえぶつ)南無帰依法(なむきえほう)南無帰依僧(なむきえそう)」の三帰戒(さんきかい)を授与され、三宝帰依を固く誓います。そして、導師様は「今自り以後、如来至眞等正覚は是れ(戒名)が大師なり」とおっしゃいます。「これから先、“如来至真等正覚(にょらいしいしんとうしょうがく)”(仏様)は故人様ですよ」ということです。仏弟子となった故人様は、遺族である我々にとって、大師(偉大なる師)そのものなのです。それを踏まえ、私たちはこの先、故人様を仏として敬い、仰ぐことを誓うのです。

次に、導師様は「更に余道(よどう)に帰依せざれ」と付け加えます。これは「三宝以外のものに我が身を委ねるのではなく、三宝一筋にいきましょう」という導師様から故人様に向けられたメッセージです。「余道」とは、「仏道以外の道」と捉えればよろしいかと思います。仏道以外の道だからと言って、簡単に良し悪しを断じられるものではありません。あくまで仏道以外の道というだけであり、三宝に帰依する仏弟子たる者ならば、仏道以外の道を歩むことなかれということなのです。実際には「仏法()うこと(まれ)なり」(修証義第1章)とあるように、仏法や三宝とご縁を結ぶのは難しいものです。そのためか、我々は見つけやすい余道だとか、簡単で理解しやすい余道に傾いてしまうことがあります。

余道と聞いて思い浮かべるものの一つに「占い」があります。テレビやインターネットなど、今日の運勢は様々な場面に登場しますが、一日の運勢がよければ、とても晴れやかな気分になります。ところが、逆に、一日の運勢が悪いと、全てが上手くいかないような気がして、気分が落ち込みます。そこが「占い」の恐ろしいところです。というのは、我々は運勢の良し悪しに捉われて、一喜一憂しているだけに過ぎないからです。運勢がよかったからと言って、必ずしも一日が円滑に過ごせるとは限りません。運勢が悪くても、晴れ晴れとした気分で過ごせることもあります。まさに「日日是好日(にちにちこれこうにち)」という禅語があるように、どんな日も最高の日であり、占いの結果だけに捉われて、せっかくのいい日も気落ちして、怠けてみたり、何もせず無駄に過ごしたりすることだけはないようにしたいものです。

何も占いそのものを否定する必要はありません。運勢がよければ明るく過ごせばよく、逆に、悪ければ落ち込むことなく、いつも以上に細心の注意を払って物事を行えばいいのです。そうすれば、「日日是好日」、どんな日もいい一日になるはずです。こうした善か悪かを端的に断じるような偏った関わり方をせず、その存在を認めるようにして、肯定的な関わり方を目指すのが、お釈迦様の指し示す「中道(ちゅうどう)」という、三宝帰依する仏弟子に求められる生き方なのです。

私たちに大師として、正法に生きることをお伝えしてくださる故人様に対して、「南無大慈大悲。大哀愍故。」と、導師様が帰依の念を込めてお唱えします。「大慈大悲」は仏の広大無辺なる慈悲心のことです。慈には「与楽(よらく)」といって、人々に楽を与える働きを意味し、悲は「抜苦(ばっく)」で、人々から苦しみを抜いて救うことを意味しています。そういう「大慈大悲」の一面を持った大師である故人様に帰依の念を発すると共に、「哀愍」とあるように、故人様から仏の慈悲をいただくことを願うのが、今回、提示させていただいた場面です。