四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること

第40回「身心安楽なるとき 有所得心(うしょとくしん)なき坐禅によって―

身心未(しんじんいま)だ安寧ならずんば、身心安楽ならず、
身心安楽ならずんば、道を証するに荊棘(けいきょく)生ず。

一佛両祖が行じてこられた「操行(そうぎょう)の心と道が符合した坐禅」というものを、我々も同じように行じ続けていく中で、「身心安楽」なる状態が訪れます。すなわち、坐禅によって、人々の身心に安寧や安楽が生じるというのです。そして、身心安楽の境地が訪れない限り、身心に「荊棘」が生じるだけであると道元禅師様はお示しになっています。

「荊棘」については、瑩山禅師様の「伝光録」における「首章」の頌古(じゅこ)・「一枝秀出(いっししゅうしゅつ)老梅樹(ろうばいじゅ)、荊棘、時と(とも)築著(ちくぢゃく)し来る」にて学ばせていただきました(詳しくはこちらをご覧ください)。「煩悩を始めとする妨げとなるもの」を意味する言葉です。荊棘が身心を取り巻いている限り、安楽が訪れることはないのです。

だからこそ、我が曹洞宗門では坐禅を勧め、人々の身心安楽を願うのですが、そうした坐禅を「有所得心(うしょとくしん)」なる「我が身にプラスになるものがもたらされることを期待して行ずる心持ち」を以て行じていたのでは、「荊棘」の妨げを受けて、安楽の境地にたどり着くことは難しいでしょう。

道元禅師様は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」の中で、坐禅は「安楽の法門なり」とお示しになっていることを、ここで再確認しておきたいところです。坐禅は我が身心に安寧をもたらします。ただし、それは「有所得心」のない坐禅を行じ続けたときのみです。「有所得心」のない坐禅によって、「身心安楽なる境地」にたどり着きたいものです。