第31回「第一章・機縁D 相承 ―大迦葉への付嘱―」
【機縁】 然るに霊山会上八万衆前にして、世尊拈華瞬目す。
皆心を知らず、黙然たり。時に摩訶迦葉独り破顔微笑す。
世尊曰く、吾に正法眼蔵涅槃妙心、円明無相の法門あり、
悉く大迦葉に付嘱すと。
機縁の最後に第一章・本則の内容が繰り返されます。今回の舞台となる霊鷲山において、梵天(仏教の守護神)が一枝の金波羅華(金色の蓮華)を差し出して、お釈迦様(世尊)に説法の依頼をなさったとき、梵天の勧請によって壇上に登られたお釈迦様は無言のまま、そこに集いし人々(霊山会八万衆)に金波羅華をお見せになりました(世尊拈華瞬目)。ところが、その意を解する者はなく、辺りは静まり返っていました。(皆心を知らず、黙然たり)
そんな中で、ただ一人、お釈迦様の意を解し、にっこりと微笑んだ(破顔微笑す)者がいました。それが摩訶迦葉尊者です。お釈迦様の三十二相から見れば「肉髻(頭部が隆起して高くなっている箇所)」のみが欠けた三十一相を有し、みすぼらしい姿(形の醜悴し衣の麁陋なる)で、周囲の会衆からも怪しまれるほどの存在ではありました。しかし、お釈迦様からは「古仏」として、その本質を見抜かれ、全幅の信頼の下、席を半分譲り受け、一会の上座として認められていくのです。
そんな迦葉尊者を、お釈迦様は「正法眼蔵涅槃妙心、円明無相の法門を悉く大迦葉に付嘱す」とおっしゃって、自らの後継者・弟子となさいました。「正法眼蔵涅槃妙心」は端的には「仏法」を示すお言葉として、本則で登場していますが、「円明無相」については、今回が初めての登場となります。これは一切の執着から離れた状態を指しています。お釈迦様が三十歳臘月八日の坐禅によって整理・体得なさったお悟り・み教えというものは、何かに捉われることのない自由で、あらゆる事象をも認め、受け止めたものです。それをそっくりそのまま迦葉尊者に付嘱するということは、迦葉尊者には、それだけの力量があることをお釈迦様がお認めになったからに他なりません。「大迦葉」というお釈迦様が発せられたお言葉には、そうした意味合いが含まれているように感じます。
こうしてお釈迦様のみ教えが迦葉尊者に相承されていきました。次回の「拈提」からは、瑩山禅師様がこの相承に関する見解をお示しになっていきます。