第1回 人身得(にんしんう)ること(かた) ―我がいのちと謙虚に向き合う―
人身得ること難し、佛法値(ぶっぽうあ)うこと()れなり
ひょっとすると、中には毎日を当たり前のような顔をして過ごしていらっしゃる方もおいでるかもしれません。しかし、元来は人としてのいのちをいただいて生かされていること、仏法と出会えたことも、いずれもが奇跡であるというのです。

令和3年9月19日、93歳にてご遷化(せんげ)(お亡くなりになること)になった曹洞宗の大本山・總持寺の独住二十五世・江川辰三(えがわしんざん)禅師様は「自分という存在は父と母、二人のご先祖様の存在によって、“今という時間”・“ここという場所”に生かされています。そして、その両親もまた父と母の存在によって生かされています(いました)。自分から見て一代遡って二人のご先祖様、二代遡って(祖父母の代)は四人、三代遡って(曾祖父・曾祖母)の代には八人、三代というと、ほんの一〇〇年くらい前でしょうが、その間で2+4+8=14人ものご先祖様の存在によって、今・ここに自分の存在があることに気づかされます。さらに四代遡って十六人、五代遡って三十二人、それらも足し合わせてみればもっと膨大な数のご先祖様がいらっしゃるうことに気づかされます。こうした先祖代々のつながりの中で、たった一人でも欠けていたとすれば、今・ここに自分という存在はなかったことでしょう。」

そう言われてみると、毎日を当たり前のような顔をして生きてきた人ほど、ハッとさせられるのではないでしょうか。自分の力だけで生きているというのは大間違い、大勢のご先祖様の存在によって、今・ここに生かされている我がいのちなのです。そうした謙虚な視点で我がいのちと向き合っていくことを「人身得ること難し」の一句から押さえておきたいのです。

そして、ここに先祖を敬う意義、先祖供養の意義があるのです。
 【第2回へ】