ペットのお話 3
先輩の話・2【ミニウサギのポンタ】
 昭和40年代の保谷市(現西東京)は、まだ武蔵野の面影を残す雑木林が所々にあり、色々な種類の野鳥が沢山見られました。西武線の沿線では陸稲や野菜が栽培され自然はたっぷり残っていました。
その後開発され農地が宅地化する中で、自然に親しむには近いところで武蔵関公園、少し歩いて小金井公園、バスで井の頭公園迄行かなければならなくなってしましました。
 小金井公園は武蔵野市関前を起点とし多摩湖に至る多摩湖自転車道沿にありあます。
 週末の天気の良い日は、西武柳沢駅から自転車道を通り小金井公園まで歩き、そこで昼食を食べるのが私たちの大好きなレクリエーションでした。時には小金井公園を通り越して、小平、萩山経由終点の西武遊園地まで歩くこともありました。小平駅の近くには小さなペット屋さんがあり、そこを通るときは必ずのぞいたものでした。
 1987年の春、何時ものようにペット屋さんに寄ったところ、ケージの中に小さなミニウサギが入っていました。ウサギには珍しい三毛で手のひらにのるほどの大きさ。短い尻尾はリバーシブル。
 当時にしてはかなり高い値段がついていましたが、家内に無理を言って買うことにしました。我々の世代は子供の頃から何らかの形でペットを飼っていましたので、ウサギを飼うことくらい楽勝と思っていたのです。しかし家の中で飼った経験はゼロ。おまけにミニウサギについても知識ゼロ。後々大変な思いをすることなど思いもしませんでした。名前はなぜかポンタと家内がつけました。
 翌日、木板と金網を買い小さな小屋を作りましたが当のポンタは人の側から離れません。結局小屋に入るのは寝るときだけとなってしまいました。
 玩具のように小さかったポンタはすくすくと育ち、1年もしないうちにペット屋の主人が言っていたサイズをはるかにオーバーし何処がミニよ、という大きさになってしましました。結局その後2回ほど小屋を作りかえることになり、最初から大きいサイズにしておけばよかったと後悔したものです。
 その後会社の仕事が忙しく帰宅時間が夜12時は当たり前、ひどい時は2時、3時というクレージーな状況が続いていました。家内はいつも帰りを待っていてくれたのですが、たまらず横になり眠ってしまうこともありました。
 そんな中でポンタだけは必ず起きていて(今考えると私が帰ったことに気が付き、とっさに起きたのかも)出迎えてくれました。しばらく遊んでやり一息ついて、私がつい横になり居眠りを始めると、それまで走り回っていたポンタも大人しく座り込んで動かなくなります。時々私の寝息を窺い顔をペロッとなめ、大丈夫と確認するとまた元の位置に戻り大人しくなるのです。
 そんな大人しいポンタも、人が起きている時はこっそり悪戯をして楽しんでいました。横になってテレビを見ている時、今日は随分大人しいなと思っていると、そっと後ろにまわり私のシャツの背中に鋏で切ったような四角い穴を開けていたのです。家内の洋服を囓ることはしませんでしたが、私はたびたびポンタの攻撃の的になり、コラ!とどなると跳んで逃げ、遠くから「どうだ」という得意げな顔をして見ていました。
ウサギはネズミのように鋭い前歯をもっていて、カミソリのようによく切れます。囓れるものは何でも囓ってしまいます。柱でも家具でも作ってあげた小屋の金網でも、時には電線まで囓ってしますので要注意です。堅いものを囓らないと歯が伸びすぎてしまうからです。
 囓るものが、安いシャツ程度のものであれば良いのですが、ベルトを囓られた時にはビックリしてしまいました。本当にカミソリで切ったようにきれいに切れていて怒るよりも先に感心してしまいました。
 飼ってみて判ったことがあります。ウサギの珍しい習性というか食性というか、糞をする時お尻をなめるようなしぐさをすることです。最初はポンタが便秘だ、などと言っていたのですが、何かの本を読んだ時ウサギは、最初に出てくる糞を食べることが判ったのです。盲腸糞といってビタミン・ミネラルの補給になるのだそうです。
食物は植物から作ったペレットという堅いものが主食です。夕食時に、人参やキャベツなどの野菜を毎日少量あげましたがすぐには食べませんでした。我々の食事が整い食べ始めるとポンタも野菜を食べ始めるのです。
 それから、鳴き声です。鳴くウサギとしてはエゾナキウサギが有名ですが、普通のウサギは声が出ないものと思っていました。ある時、家内が誤ってポンタの自慢の尻尾を踏んでしまったのです。とたんに「ウッ」という声を出しました。さぞかし痛かったのでしょうね。また、危険を察知したときも「ブウ ブウ」と言う声を出し、後ろ足で床を蹴りドン、ドンという音を出します。また変な癖があり、紙幣が大好きでした。特に千円札が好みで、こちらの隙を見ては財布から札を抜き取り、くわえて走りまわっていました。

 ポンタが8歳の春、1995年5月に、居候のようにチビコが仲間に入って来ました。動物は案外焼き餅やきで、飼い主の気持ちが他の動物に移るのを嫌がるものです。
しかしポンタは、チビコを快く迎え入れてくれました。最初のうちは遠慮していたチビコも、慣れるにつれ、まるで自分が先にいたように振る舞いだしました。ポンタの主食のペレットを失敬したり、頭の上をグルグル飛び回りからかったり。挙げ句のはては、ポンタの尻尾の毛を引き抜いたり。

 その頃結構な年齢になっていたポンタは、身体のあちこちにガタがきて医者がよいが始まりました。赤いバスケットに入れられて近所の獣医さんに診てもらうのです。ポンタは、周りに犬や猫の気配を察して籠のなかで震えています。診察室に入ると、人間の子供と一緒で白衣のお医者さんを見ただけで必死に逃げ出そうとします。だからポンタは赤い籠が大嫌いでした。
 チビコが来てから2年後の1997年6月29日、丁度日曜日で私達は家にいました。図書館に行こうかと準備を始めたのですが、ポンタの様子が変です。家内が抱き上げて背中をさすっているうちに眠るように動かなくなりました。満10歳でした。チビコに、「お別れを言いなさい」と見せたら、異常なくらいに恐がり寄りつこうとしませんでした。
 家内の涙がおさまるのを待って、葬儀社に電話しました。
翌日、朝早く小さな壺に入ったポンタが戻ってきました。それを見て家内はまた泣き出しました。葬儀屋さんに促され外にでてみたら家の前にワゴン車が止まっていて、車の中には立派な祭壇がありました。黒い服を着た葬儀社の人が、大きな声でお経を上げ始め、順番に焼香するように言われました。道を通る人は、何事が起こったのかと覗いていきます。ポンタを思い出して悲しんでいた私達も、ビックリしてしまい悲しみもどこかに飛んでしまいました。あの時ほど早く終わってほしいと思ったことはありません。
 
 家内は今でもポンタの位牌に水やお花をあげ、お祈りをしてます。