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番号 写真 観 音 の 説 明




 女人形における楊柳観音にあたると思われるが宝冠の白衣があいまいであり、女性的というより男性的風貌である。
 銘文中の高岡大長は弘化・嘉永の頃、高岡で活躍した侠客大長こと蓮花寺屋伝右エ門である。この人名と紅屋並びに檜垣屋の人名によってこれら観音の造顕年が推測できる。尚、本像を昔自宅の庭に移したものがあったが、家人の病気が絶えず、また元の場所に戻したと伝えられている。元の位置の確かな唯一の遺品である。

所在地図




 この像は右手がはっきりせず、衣文もあらい。銘文によって、倶利伽羅峠観音散逸後現在地に移されたのであろう。また、銘文の「常徳村八左エ門」の八左エ門は津幡町常徳の入口に顕彰碑の立つ大西八左エ門と同一人物であろう。むかしから安産の観音様というのは、両手でおなかを抱えているように見える姿からくるのであろう。

所在地図




 本像は唯一の合掌坐像である。銘文の中の「能登屋又次郎」は三十番にも登場する。能登屋は伏木の廻船問屋で代々又次郎を称した。但し、銘文中の又次郎は、弘化四に今の石動の町年寄紅屋惣左エ門の弟が能登屋の養子となった又次郎である。この又次郎は安政二年には伏木村の算用聞であった。
 十一番に見える「千葉東惣左エ門」・「同平兵
エ」の屋号が紅屋である。

所在地図




 合掌像である、なかでも丁寧である。面貌は仏像離れして童子のようである。銘文に見える世話人の「檜垣屋藤左エ門」は今の石動の檜垣屋七代目の藤右衛門であろう。村肝煎をつとめ、俳号を一可、画号を守常といい、風雅の道にいそしみ数々の名作を遺し、安政三年に没した。この安政三年こそ、倶利伽羅峠観音の造顕最下年である。

所在地図
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