第2回 「どんなことがあっても・・・」


(しょう)()え、身を()えても、
三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし


第2章「懺悔滅罪(さんげめつざい)」・第2回「差別なき救いの門」の中で「六道(ろくどう)」についてお話させていただきました。詳しくはそちらをご参照いただけたらと思いますが、人間にはそれぞれの人生の中で、やむを得ず人としての正しい道から外れてしまうことがあります。何かに怒り狂ったような時期を過ごすことがあれば(地獄)、やたらと高価なものを求めてみたり(餓鬼(がき))、本能のままに過ごしてみたり(畜生(ちくしょう))・・・。自分で注意していなければ、道から外れてしまうのが我々人間なのでしょう。

しかし、いくらやむを得ず道を外れてしまったとしても、“懺悔”(そこで自分の過ちに気づき、自ら人として歩むべき道を軌道修正していくこと)をしなければ、いつまでも道から外れたまま進歩もなく、周囲にも迷惑をかけ、自分も周りも苦しい思いをするだけです。

そんな我々に対して、たとえ道を外れることがあったとしても、どうか「三宝帰依(三宝を供養し敬い奉ること)」だけは忘れないでほしいというのが、道元禅師様の願いです。自分の考え方が変化し、どのような生き方をしようが、そこに「三宝」の2文字を思い起こしてほしい・・・。そうすることで、自らの苦しみを解消し、しっかりと人としての道を歩み、少しでも“成仏”を目指してほしいというのです。

「六道」という六つの世界の中で、我々はそのどこかに身を置いて、苦しんだり悩んだりしながら日々を過ごしています。そんな中で少しでも、安楽と成仏を目指すことを願って、道元禅師様は我々に“懺悔”と“三宝帰依”の大切さを訴えるのです。