第5回 「芯を持つ ―三宝を心の拠り所とする―


(いたづ)
らに所逼(しょひつ)を恐れて山神鬼神等(さんじんきじんとう)帰依(きえ)し、

(あるい)
外道(げどう)制多(せいた)に帰依すること(なか)

(かれ)
其帰依(そのきえ)()りて衆苦(しゅく)解脱(げだつ)すること()


道元禅師様は未だ仏法僧の三宝とご縁を結んでいない方々が少しでも早く三宝とご縁を結ぶことを願っておられます。なぜならば、私たちが三宝とご縁を結ぶことができれば、三宝が確かな拠り所となるからです。そして、そうなることが我々が生きていく上で避けられぬ様々な苦しみを和らげ、この世にいただいたいのちを完成させることにつながっていくからです。

ところが、未だ三宝とのご縁を結ぶことができない人は、苦しみに出会ったとき、自分の心の拠り所がはっきりしていないので、海のものとも山のものともわからないものにすがってしまうというのです。それが「(いたづ)らに所逼(しょひつ)を恐れて山神鬼神等(さんじんきじんとう)帰依(きえ)し」の意味するところです。要するに、この一句は我々に三宝以外の不確かなものを信じ込んでしまうと、余計な苦しみを背負うばかりか、人間性の完成さえもままならないというのです。『儀式に学ぶ 第12回「余道(よどう)とのつきあい方」』でもお話させていただきましたが、たとえば、「占い」の結果にすがってしまうと、運勢がよければ飛び上がるように喜んでみたり、逆に、悪ければ落ち込んでしまうというというように、占いの結果だけでその日一日を過ごす気持ちが大きく揺れ動いてしまうことになりかねません。仏法僧の三宝以外のものに帰依するということは、こうした自分の気持ちを極度に不安定にするような存在と関わっていくということでもあるのです。

また、「外道(げどう)制多(せいた)」に対しても、むやみやたらとすがってはいけないと道元禅師様はおっしゃっています。「外道の制多」とは、自称・宗教団体を名乗るような組織や団体のことです。つまり、表面上は釈尊の教えを提示し、世間の悩める人々の救済を謳いながら、内実は営利目的で営まれているような組織や団体のことです。人知れず苦しんでいる自分を救ってくれるものがないとき、人はついついそうした団体組織に引き込まれがちになります。しかし、そんなことをしても、「衆苦(しゅく)解脱(げだつ)すること無し」なのです。つまり、苦しみから救われることはないと、道元禅師様は明確な解答を提示していらっしゃるのです。

ですから、しっかりと仏法僧の三宝を自分の心の拠り所とし、自らの信仰を確立してほしいと道元禅師様は願うのです。若さゆえに経験が足りなかったりすると、核となる考えがなかったりするからか、人間は周囲の影響を受けやすくなり、考え方がブレたりしてしまうものです。そうなると、もはや自分の判断で物事の是非を判断することさえできません。そうしたむやみやたらと誰彼構わずに周囲に迎合しようとするようでは、何をやってもうまくいかないのです。

そうならないためにも、自分の芯となるものを持つことが大切です。芯とはポリシーとか方針などといった言葉で表現することもできるでしょう。「三宝を芯とする」−すなわち、三宝を心の拠り所とすることで、自らの信仰を確立していくと同時に、普段の日常生活の中でも芯を持って生きていくことで、自分のあるブレない生き方を願うばかりです。