第28回「山頭念誦―再び、“成仏”を願って―」
是日即ち新帰元(戒名)有って、既に縁に随って寂滅す。
乃ち法に依って荼毘(掩土)す。
百年虚幻の身を焚いて(埋んで)一路涅槃の径に入らしむ。
仰いで清衆を憑んで覚霊を資助して念ず。
葬祭場(山頭)に到着した故人様に、「引導法語」や「弔辞」が述べられた後、再び仏法僧の三宝を念じ、故人様の成仏を願います。そんな葬祭場に到着して最初にお唱えするのが「山頭念誦」です。
一般的に人が亡くなると、「享年△歳」という言い方をします。「享年」の“享”には、「いただく」とか、「受け取る」という意味があります。たとえば、「享年60歳」という言い方をする場合、60年という、この世での時間をいただいたということになります。「誰からいただいたいのちなのか?」と言えば、故人様のご両親からいただいたいのちと言うことができるでしょう。また、“世尊の二十年の遺恩”の仏伝から申し上げるならば、お釈迦様がご自身の百年間の寿命を自らのご意思で二十年間縮め、後世の人に施したいのちであるがゆえに、お釈迦様からいただいたものと解釈することもできるでしょう。
この世尊遺恩の仏伝に着目してみたとき、人間の寿命は、自分の力でコントロールできるものではなく、仏によって決められた「仏縁」であることに気づかされます。それを指し示しているのが、冒頭の「縁に随って寂滅す」です。
次に、そうした仏縁による“いただきもののいのち”が終焉を迎えたとき、仏法に随って、故人様の成仏を願う必要性があることが説かれます。それが「法に依って荼毘(掩土)す」です。自分という存在が、お釈迦様やご両親を始めとする先祖代々のおかげさまで、この世にいのちをいただいたことに気づくことができれば、仏法に随い、お釈迦様やご先祖様がいらっしゃる所に帰ることが、本筋であることに合点がいくはずです。
そして、「百年虚幻の身を焚いて、一路涅槃の径に入らしむ」とあります。「百年虚幻身」は、「百年(人間の一生涯を概算で表した年月)は泡幻、草露のごときはかないものである」ことを指し示したお言葉です。また、「一路涅槃径」というのは、「涅槃(お釈迦様のお悟り)へとつながるたった一本の径(一路)」のことです。ここでは、故人様が仏縁に導かれ、法に従って、概算百年に及ぶ一生涯を終え、涅槃に入っていくことが説き示されます。そして、そのことを理解・確認した上で、この世でのお役目を終えた故人様が、まっすぐに悟りへの道(径)へ進むことを願うのです。つまり、この一句は、「諸行無常(時間の流れの中で、万事が絶えず変化し、消滅していくことが必須であるということ)」のこの世において、お釈迦様や先祖代々から脈々とつながるいのちを成就した故人様が、お釈迦様やご先祖様の下に真っ直ぐ進み、成仏(仏に成ること)を願うものなのです。
そうした故人様の成仏を、葬儀を司る僧僧侶方はもちろん、葬祭場にご参詣になっている故人様と縁の深き者全員が、再び願うことを意味しているのが「仰いで清衆を憑んで念ず」です。この一句は「大夜念誦」の項にても登場しました。この後、成仏を願って、「十仏名」が唱えられます。仏法僧の三宝が念じられるのです。