第50回「曹洞宗門の坐禅B ―全てを含む“無為の行”―


(あるい)は行を証すと(いえど)も、又無為(またむい)の行なり、(いわ)く身に所作無く、口に蜜誦(みつじゅ)無く、心に尋思(じんし)無く、六根自から清浄にして一切汚染(おせん)せず、声聞(しょうもん)の十六行に()らず、縁覚(えんがく)の十二行に非らず、菩薩の六度萬行(ろくどまんぎょう)に非らず、一切為さず、故に名けて仏と為す。


今回は三徳(教・行・証)における、「行」に関するみ教えが展開されていきます。

まず、坐禅という行について、瑩山禅師様は「無為の行」とお示しになっています。この「無為の行」とは一体、どんなことを意味しているのでしょうか。それは「自然の状態」です。すなわち、あるがままの状態で、外部から何も手の加わることがない状態のことです。

道元禅師様がお釈迦様から脈々と受け継がれている坐禅とは、「無所得無所悟(むしょとくむしょご)の坐禅」であるとお示しになっていることは、これまで幾度も申し上げてまいりました。これは、たとえば、「周囲から好かれる人になりたい」とか、「精神的に強くなりたい」などといった、何らかの目標を掲げてみたり、自分に何か良いことが起こるのを期待したりして、坐禅に臨んでみたところで、何も得るものもなければ、悟ることもないということです。そうした自分に都合のいい解釈や所作を一切持ち込むことなく(身に所作無く)、あれこれ言葉を発することなく(口に蜜誦無く)、定められた作法で身を正すと共に、頭の中に浮かび上がってきた思考や心の中に思い描いたことに捉われることなく、次々と捨てていく(心に尋思無く)ことによって、私たちは仏に近づいていくのです。すなわち、坐禅を行ずることそのものが仏の修行を行することであり、仏に近づくことに他ならないのです。そして、そうした坐禅をしているときの私たちの身心は仏そのものなのです。

ということであれば、私たちの身心を構成している眼・耳・鼻・舌といった感覚器官も凡夫のそれではなく、仏の眼や耳などになっているはずです。それが「六根自ずから清浄にして一切汚染せず」の意味するところです。

次に、「声聞」や「縁覚」、「菩薩」という言葉が登場します。これらは「三乗(さんじょう)」と呼ばれます。それを下記の一覧表にてまとめてみました。

声聞 お釈迦様のみ教えを聞いて修行をする弟子 声聞十六行の修行を行う。
四諦(したい)(苦・集・滅・道)を悟るのに、苦・集・滅・道の下に、各々、四種の行相がある。

縁覚 他に頼らず、自ら縁起の法(全てが関わり、支え合っている)を観じて、悟りを得る者 縁覚十二行十二因縁(じゅうにいんねん)を観じて、悟りを得る。
菩薩 自ら仏の修行をしつつも(上求菩提(じょうぐぼだい))、周囲の人々にも仏の教えをお伝えし、仏の悟りへと近づけてくれる(下化衆生(げけしゅじょう))存在。 六度萬行(六波羅蜜(ろっぱらみつ)を修行し、悟りを得る。

三乗には、それぞれの特徴や修行方法があるわけですが、坐禅という行には、それらすべてが元々、含まれているというのが、「声聞の十六行に非らず、縁覚の十二行に非らず、菩薩の六度萬行に非らず」において、瑩山禅師様が強くお示しになっていることです。すなわち、何も考えず、何も期待せず、黙って、お釈迦様がお示しになった通りに坐禅をやって、やって、やり続けていれば、自ずと声聞の十六行にも、縁覚の十二行にも、菩薩の六度萬行にも出逢うことになるのです。そうやって、坐禅を行することが、仏のみ教え一つ一つとご縁を育んでいくのです。だから、坐禅は外部から何の力も与える必要のない、「無為の行」だと言えるのです。それが「名けて仏と為す」の意味するところです。

坐禅という行は、それ自体が仏の行いです。坐禅をすることが尊いことです。そんな尊い世界に、凡眼(凡夫の眼)だけで計ったつまらぬものを持ち込むことなく、無為の行そのままに味わっていくことが、お釈迦様から伝わる曹洞宗門の坐禅なのです。要は、一切の理屈を抜きにして、他のことを考えることなく、坐禅の世界に身を置いてみればいいのです。