第64回「仏祖の坐法 その3―ココロ・カラダ・コキュウを調える―

張らず(ほそ)めず。是の如く調身し(おわ)つて、欠気安息(かんきあんそく)す。(いは)ゆる口を開いて気を吐くこと一両息(りょうそく)なり、次に須らく坐定(ざじょう)して身を(うごか)すこと七八度し、()より(さい)に至つて兀兀(ごつごつ)として端坐すべし。

前回に引き続き、今回も瑩山禅師様より「仏祖の坐法」が提示されています。今回も同様に、道元禅師様の「普勧坐禅儀」にも同じ内容のお示しがあります(普勧坐禅儀 第20回「坐禅中の思考 ―“不思量底”を思量する」を参照)。そちらも併せて参照しながら、今回の一句を味わってみたいと思います。

まず、「張らず微めず」とあります。これが「調身」という、「姿勢を調える」ということです。「調身」は坐禅には欠かせませんが、ただ、注意しなければならないことがあります。それは、「調身」を意識するあまり、直立不動といわんばかりにガチガチに身体を固定してしまうような姿勢の調え方は調身ではないということです。それが、「張らず」ということです。逆に、「微」が意味するような、「締まりなくダラッとしている」のも「調身」とは言えません。あまり張りすぎず、かといって、ダラダラすることなく、頭の先で天井を突くようなつもりでいると、ほど良く背筋が伸びていきます。これが「張らず微めず」という「調身」なのです。

そうやって、「欠気安息」、すなわち、「呼吸が調ってくる」と瑩山禅師様はおっしゃいます。これが「調息」ということです。道元禅師様が「欠気一息(かんきいっそく)」とお示しになったのに対して(普勧坐禅儀 第19回「坐禅の条件 その7 坐禅中の呼吸」参照)、瑩山禅師様が「欠気安息」とおっしゃられたことが興味深いです。両者は同じことなのですが、瑩山禅師様の「安息」という言葉には、坐禅によって、姿勢が調えば、呼吸のみならず、心も調い(調心)、今まで感じたことがないような安心感さえも覚えるようになるという意味までもが内包されているように感じられ、とても奥深いものを思わずにはいられません。

坐禅中の呼吸について、瑩山禅師様は「一両息」という言葉を用いていらっしゃいます。これも瑩山禅師様の特有の言い回しです。「一両」には、「一個、二個」の意がありますが、ここには、坐禅を行ずる一人の人間から発せられた調った呼吸によって、周囲に無限に拡がる全世界とつながり、今、自分がいのちをいただいて、この世に生かされていることをまじまじと実感できるという意味が込められているように感じます。そうした呼吸が「調息」という、坐禅による調った呼吸ということなのでしょう。

そして、次に瑩山禅師様は坐禅中の姿勢に言及なさっています。「身を搖すこと七八度」とあるように、数回に渡ってゆっくりと身体を左右に揺らしながら、大自然の中で動ずることなくそびえ立つ大山のごとく兀兀と端坐できるようなポイントを押さえ、姿勢を調えていくのです。これは、道元禅師様のおっしゃる「左右揺振(さゆうようしん)」ということです。ちなみに、「麄より細に至る」というのは、最初は荒々しく大雑把な動きだったものが、次第に静かに落ち着いた動きに変化していく様を示しています。こうした動きが「左右揺振」ということなのでしょう。

瑩山禅師様特有の言い回しはあるものの、それも含め、お釈迦様から両祖様(道元様・瑩山様)へとそっくりそのまま坐禅が相承されていることは、今回の一句においても証明されています。坐禅を実践していく上での留意点はいくつかありますが、実際にやってみながら、少しずつ身についていくものではないかと思います。一度で全てをやり遂げようとせず、できることから少しずつ取り入れながら、少しでも多くの方が自分の「ココロ・カラダ・コキュウ」を調え、安心のある日常生活を送っていただくことを願うばかりです。