一、
第18回「
唯
「
そうした心の動きというものについて、道元禅師様は「発心以降の妙行なり」とおっしゃっています。すなわち、菩提心というものが育まれる前に生ずるのではなく、しっかりと菩提心を発してから後に育まれていくものであると道元禅師様はお示しになっているのです。その順番をきちんと押さえるべく、道元禅師様は「猥りにすべからざるか」と発して、我々学道の者に用心するよう注意喚起をなさっているのです。
そこを押さえた上でで、「菩提心を発す」ということについて、今一度、学道用心集が指し示すものに立ち返ってみると、一つ目には前回提示されていた「
そして、二つ目として注目しておきたいのが、「吾我を忘れる」ということです。道元禅師様が「
普段、私たちは、周囲に目を向け、相手のことを最優先に考えていこうと思いながら過ごしているかもしれませんが、いざ、不利な立場に置かれたりすると、ついつい我が身を最優先に考え、自分を守らんとする言動を発してしまうものです。それが「自分のことを思い出す」ことであり、「吾我を忘れる」ことと正反対の行いだというのです。
そんな吾我というものを忘れたり、距離を置いたりすることが、仏道を歩んでいく上で欠かせないというのが、「唯だ暫く吾我を忘れて」の意味するところなのですが、道元禅師様は吾我を忘れて、「僣かに修す」とお示しになっています。これは「目立とうとしてはならない」ということです。吾我が強ければ、自分のことしか考えられなくなってしまいますので、自分だけが目立ち、いい思いをしたいという気持ちが強まってしまうものなのです。仏道の世界では、そうした考え方を否定し、強く戒めているのです。
こうした考え方は、仏の世界のみならず、一般の世界においても当てはまるもので、よくよく注意しておかなくてはならないものと考えます。私には三人の子どもがいて、子どもがお世話になっていた保育園で5年間、保護者会活動に参加させていただきました。また、小学校では保育園での経験を通じて、何かお役に立てないかという思いで育友会活動に参加させていただき、今年で4年目を迎えます。同じ年代の子どもを持つ同世代の親御さんたちとの活動は楽しく、ほとんどの方が、子どもたちのために、あるいは、地域のためにと、家庭や子育て、仕事の合間をぬって、精力的に活動なさっていたのが印象的でした。これぞまさに「吾我を忘れて、僣かに修す」という道元禅師様のお示しそのもののお姿であり、菩提心を発した尊い生き様に他なりません。
ところが、中には「吾我を忘れる」ことができないままに活動に参加される方もいらっしゃって、残念な思いをしたこともありました。我が子の前でかっこいいところを見せたいと、他者を押し退けてまで会長職に就こうとした方、若いお母さんと親しくなりたいと言わんばかりに活動に参加し、空気を乱してしまった方、子どもが通う保育園や小学校にそうした心持ちで活動をしている方が少なからずいることは耳を疑うような話ではありますが、近年は“イクメン”という言葉があるように、父親の子育て参加の機会が確保されていく中で、こうした事例が発生し、純粋な気持ちで活動している人々を苦しめているのではないかという気がしております。
今回、「学道用心集」の中で、道元禅師様が発している「吾我を忘れる」ということは、私たちが日常生活を送る中で、大切にしておきたい重要なポイントです。まさに「観無常心」」同様、仏道が一般の世界に発する大切な視点と言っても過言ではありません。自分の中の吾我に気づかず、吾我の暴走を押さえられずに過ごすことは、かっこよく目立とうとしているつもりで、却って周囲にはかっこ悪く映ってしまうものです。常に周囲に目を配り、皆が楽しく過せるように取り計らっていくことは、決して、目立つ行いではありません。まさに「僣かに修す」です。しかし、周囲には尊く、美しく見えるものなのです。保育園や小学校と、長年に渡る保護者会活動を通じて感ずるのは、ひょっとしたら、年齢も若く他者から評価されるなどの成功経験が少ないがゆえに自信が持てずにいることが、吾我の発生につながっていくのかもしれないということですが、吾我がもたらす弊害をよくよく考え、吾我と上手く付き合っていけるようにしていくことを、「学道用心集」から学ばせていただきたいと願うのです。