四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること
第46回「
行者念じて自身の為めに佛法を修すべからず。名利の為めに佛法を修すべからず。果報を得んが為めに佛法を修すべからず。霊験を得んが為めに佛法を修すべからず。但だ佛法の為めに佛法を修する、乃ち是れ道なり。
今章・第43回始め、「菩提心を発すべき事」・第7回等において、道元禅師様からは再三に渡り、仏道修行というものは「自分のため」だとか、「
ところで、「仏道の為の仏道修行」というのは、一体、どういうことを意味しているのでしょうか?―少し具体的に見ていきたいと思います。
人間というのは、誰しも自分が一番かわいく、自分が救われることや、自分のためになることばかりを追求しながら生きているところを持った存在です。そんな習性を有した人間に対して、道元禅師様は「自身の為めに佛法を修すべからず」と自己をかわいがることに対して、ストップをかけています。すなわち、自分が救われることや、何かを得ることを願って仏道修行に励むことは、お釈迦様から今日まで脈々と伝わる仏道の姿ではないというのです。言い換えれば、“自分が”という自己を最優先するのを止めた先に、お釈迦様が指し示す仏道があるということなのです。
そんな自分の方にばかり向いていた視線を、仏の方に向けてみる、つまり、我が身よりも、あるいは、他のどんな存在よりも仏を敬うという「
それは自分に何らかの見返りや利益がもたらされることを求めて行ずるものではありません。まさに「
最後に道の先人のお言葉を見ておきたいと思います。
『為めにする行は自己と佛法とを二つに見ているのである。佛法の為めに佛法を修することは、自己と佛法とが一つになっている修行である』
このお言葉もまた、押さえておきたいところです。