第12回 「ほとけの救い」
今回、登場するのは「懺悔文」と申します。文言の意味等はこちらの解説をご参照いただき、今回は違った視点から、この文言を味わってみたいと思います。
修証義第2章・第4回『「心の大掃除」の習慣化』でもお話させていただきましたが、懺悔は掃除にたとえるとわかりやすく解釈できます。
平成22年7月のお盆は暴風雨に見舞われました。住職になって6年、こんなに荒れたお盆は始めてでした。あまりの悪天候で境内から墓地にかけて、イチョウの若葉が舞い散り、お盆中に大掃除をするという、これも住職6年目にして初めての経験をさせていただきました。
掃除を終えて、枯葉一枚落ちていない境内を見ると、とてもすがすがしい気分になります。禅寺というのはきれいに掃除されていてナンボですが、その環境を維持するためには、どんなに忙しくても、掃除は日課として欠かさず行い、常にすがすがしい状態を常に保っておかなければならないと、改めて感じた次第です。
落ち葉が散っているから境内を掃除をする―
掃除をしなければ、きれいにならない―
毎日、掃除をするから、きれいな状態が保てる―
これらは、誰もが納得できる当然のことです。常にきれいにしておくためには、常に掃除をしていなければなりません。いくら掃除をしてきれいにしたとしても、ゴミがあれば、再び掃除をしなければ、きれいな状態は保てません。
それは我々人間も同じです。
日々の生活の中で、知らず知らずのうちに過ちを犯してしまう私たち―反省(懺悔)を繰り返していく中で、同じ過ちを繰り返さないようになっていきます。
そうやって、常に自らと謙虚に向き合い、反省(懺悔)が習慣化していくことで、我々はきれいな心を保てるようになるのです。
まさに「過ち」とは境内の落ち葉のようなものであり、「懺悔」とは落ち葉の「掃除」ことなのです。落ち葉同様、一度犯した過ちは、掃除をしない限り、また繰り返してしまうものです。そうやって何度も何度も過ちを犯すから、汚れがこびりつくのです。そして、いざ掃除しようとしても、なかなか汚れが落ちないのです。
だからこそ、常に「懺悔」をして、心を掃除しておかなければならないのです。「
そんな「懺悔」を欠かさず行なう者には、「仏祖の