第13回 「身口意(しんくい)三業(さんごう)で懺悔する」


心念身儀発露白仏(しんねんしんぎほっろびゃくぶつ)すべし
発露(ほっろ)の力、罪根(ざいこん)をして鎖殞(しょういん)せしむるなり


前回登場した「懺悔文(さんげもん)」において、今、自分が苦悩に満ちた日々を送っているとすれば、その原因は他の誰かにあるのではなく、自分であるということが説かれていました。自分が自分の心の中に作ってしまった悪意が、言葉や行いとなって自分から飛び出し、周囲に届いてしまったことによって、相手も自分も苦しむことになり、今の苦悩に満ちた現実が生み出されてしまったのです。

しかし、そんな自分の身(行い)・口(言葉)・意(心)によってもたらされた現実も、懺悔によって変化してくというのです。悪意はどうやって発生するのか?そして、どういう対処をすれば、悪意を断ち、苦悩を取り除くことができるのか―?
私たちが悪意の性質や発生の道筋等を押さえると共に、全ての原因を自らに求め、改善していく姿があるならば、いくらでも状況は自分の望む方向に変わっていくのであり、それが第2章のテーマである「懺悔」だというのです。

とは言え、そうした懺悔は口で言うほど簡単なものではありません。私たちは幾度も失敗を繰り返しながら、段々と謙虚に自分と向き合うことができるようになっていくのではないかと思います。懺悔は一度にできるものではなく、成功と失敗を繰り返しながら、習慣化していくものであり、そうやって私たちは成仏、すなわち、自分の人間性を完成させていけるのではないかと思います。

そんな「懺悔文」に示されたみ教えを踏まえながら、今回の一句を味わってみます。

心念身儀発露白仏(しんねんしんぎほっろびゃくぶつ)」は、「心念」・「身儀」・「発露白仏」と3つに分割して捉えていくとわかりやすいです。「心念」とは「心に念じる」ということですから、心による懺悔を意味していることに気づかされます。同じように捉えていくと、「身儀」は「身の所作」、つまり、我々の身体で行なう“行い”としての懺悔のことがわかります。そして、「発露白仏」ですが、「発露」とは「さらけ出すこと」であり、「白仏」とは「仏さまに申し上げる」ということであります。「白」というのは、「純白」等の意味だという解釈も成り立つかもしれませんが、ここでは「告白」という言葉から推察して、「白=申し上げる」という解釈をしております。要するに、“口(言葉)”で行なう懺悔のことです。

「心念=心」、「身儀=身体」、「発露白仏=口」―すなわち、「身口意(しんくい)の三業で懺悔すること」です。つまり、身口意の三業をフル活用して、全身全霊で自分をさらけ出していくことが、成仏につながる懺悔だというのです。

「心」による懺悔―それは、第12回 「ほとけの救い」で申し上げたように、常に心の掃除を怠らずに、きれいな心を保ち続けることです。

「身体」で行う懺悔―それは、第8回 「“口動”ではなく、“行動”を」で申し上げたように、同じ過ちを二度と繰り返さないという誓いを、自分の行動で体現して行くことです。

「口(言葉)」で行う懺悔―それは、第4回『心の大掃除」の習慣化』で申し上げたように、仏に帰依する仏教徒のごとく、周囲を敬うことによって、自分に素直になり、誠心誠意で懺悔の意を表すことです。そうやって素直に自分をさらけ出すことを出発点として、最終的には、多くの人と素直に自分をさらけ出し合いながら、何でも言い合い、聞き合うことができる“絆づくり”が目指せたらと思うのです。

そんな身口意の三業による懺悔が「罪根を鎖殞(しょういん)させる」ということですが、「鎖殞(しょういん)」」は、「懺悔滅罪」の「滅罪」を表しています。“鎖”は“とかす”、“殞”は“おちる”を意味します。身口意の懺悔によって、人は仏様の救いを受けるのみならず、過去の罪を小さくし、「人間性の完成」という、いただいたいのちのあるべき生かし方への迫っていくのです。

2章は今回で最後となり、次は第3章「受戒入位」に入ります。
2章では幾度か成仏という言葉が出てまいりましたが、3章では成仏への道が具体的に示されていきます。
その前段として、欠かせないのが2章のテーマである「懺悔」なのです。